ストレートなタイトルが表すように、昨年の緊急事態に突入する前の春先から、緊急事態宣言が終わる初夏までの間を記録した日記集。栗原裕一郎の記述に詳細に書かれているように、急に立ち上がった企画ではあるもののメンバーのセレクションに関しては、編者の辻本のこれまでの人脈やこれまで刊行されてきた『生活考察』の執筆陣が関わっており、『生活考察』の延長として読む面白さもあった(本書を「生活考察叢書」と名打ってあるゆえだろう)。
辻本自身の記述にもあるように、メンバーのバランスを考える際に住んでいる地域もかなり意識したようだ。日本国内については関東に偏ることなく散らされているし、またアメリカやドイツ、イギリスなど海外在住者の記述も多く集められている。いわゆる第三波が来ている今読み返すと、そうかそういうことで当時の私たちは恐怖したり政治に絶望したり、あるいは日々の生活に必死だったのかと伺うことができる。
例えば栗原裕一郎は幼い子どもの子育てのことを、谷崎由依は妊娠出産を経て間もないころの子育てについて多くの記述をしている。子どもの年齢や、父視点と母視点といった違いはあれど、社会状況が変わっていっても続いていく生活の延長の上に子どもがいるという環境の大変さがにじみ出ている。
あるいは田中誠一は京都の出町座に関わる立場から映画館について、西村彩はライブハウス新代田FEVERに携わる立場から厳しさを増す経営状況や業界の行く末について記述している。クラウドファンディングを試してみたり、ウーバーイーツを試してみたりと様々なことを試みる中で、しかし先の見通せない日々の辛さはやはり端々に読み取れる。
そうした形で具体的に書いていくと事情は各々様々あれど、いかにして生き延びるのかを克明に記録したものという共通点が色濃く浮かび上がる。致死率が低いとも高いとも言えないウイルスであり、無症状感染者を多く引き起こすこのウイルスは人と人との物理的距離も容易に遠ざけていく。また、感染症対策になかなか妙案を打てない政治によってさまざまな業界や暮らしが、あるいは地域が分断されることも珍しくなかった。
だからこそ谷崎由依の次の言葉が、この本全体に通底している共通感覚のようにも思える。
インタビューしてくれた記者さんが、切迫早産について書いたわたしのエッセイを読んでくれていて、「ただ時間がすぎることだけを願っている」というのが、コロナ禍に似ていると言った。確かにそうだ。外に出ず、何も起こらないように、悪いことにならないようにと願いながら、やりすごしている。(p.150)
この日記に含まれている記述は一年近く前のものから始まるため、そういえばそういうこともあったなと今更ながら振り返ることも多くあった。だからこそどうか、無事でやり過ごせますようにと願いながら生きた日々の記録を、いまもう一度読み返す価値は大きい。いままさに何度目かの緊急事態に見舞われている地域はいくつもあるし、「やりすごす」日々は、これからもしばらくはまだ続いていくからこそ。
[2021.6.6]