過去から跳ね返ってくるのは、私がつくった過去ばかりで、そこにあったはずの私の知らないものたちは、過去に埋もれたままこちらに姿を見せない。思い出されるのは知っていることばかりで、思い出せば思い出すほど、記憶は硬く小さくなっていく。(滝口2018,p.108)
のちに「死んでいない者」で芥川賞を受賞する滝口にとって、最初に芥川賞候補になった小説が本作である。その第153回は羽田圭介&又吉直樹のダブル受賞となった回で、メディアの注目がいつになく集まった回でもあった。又吉と一緒に滝口がツーショットで映る可能性もわずかながらあったかもしれない。
その当時に一度読んでから約10年ぶりに読み返したことになるが、タイトルに「ジミ・ヘンドリクス」と振ってあるわりには音楽小説なわけでもない。ただジミヘンのギターが主人公の「私」にとって重要だった。ツェッペリンよりも宇多田ヒカルよりも、ジミヘンだったのだと。
2001年、19歳、大学生の「私」は夏休みを利用して東北へのバイク旅に出る。バイト代を貯めて友人から10万円で買った安いバイクに乗った「私」は、その道中で田んぼに埋まってしまう。脳裏には、高校時代の美術教師である房子との思い出が浮かんでいた。非常勤で週2日程度学校で授業をする房子だが、美術準備室で裸になっているひとときがあった。その裸を目撃したあとも何かが起きるわけではなかったが、「私」が高校を卒業し、房子が高校を辞めて池袋の飲食店で働き始めたころからうっすらと関係が始まってゆく。その房子がアメリカに旅立った夏を経て、9.11を「私」は日本で目撃する。
実はこの小説を読む前に『死んでいない者』を読んでいたが、小説内の時間を自由きままに操るそのトリックは、似たものがあるなと思っていた。本作は私小説的に書いているが、『死んでいない者』は故人をめぐる関係者それぞれのドラマを描ききったことがおそらく強く評価されたのだと思う。
だからといって、私小説的な本作の評価が下がるわけでもない。小説の技術的には確かに『死んでいない者』が抜群に優れており、完成度が高い。だが本作には本作の良さがあるし、「高くない完成度」はむしろ青臭い時代を書いた私小説としてはむしろメリットにもなっているはずだ。ゆえに個人的には、小説として魅力があるのは本作の方だと思う。
詳細に書かれるのは高校時代~アメリカ出発前に至るまでの「私」と房子の思い出の数々だ。とりたてて美人ではないが、若い教師だったということ、裸を見てしまったという経緯を経て房子と接近する。ただし房子には恋人らしき人が複数おり、「私」もワンオブゼムだったらしいことも書かれている。過去とは往々にしてそういうもの(思い通りにいかない経験の数々)で、だからこそ時が経ってから懐かしく思い出せる、という要素もあるのだろう。
池袋、江古田、国分寺、田無……デビュー作の「楽器」もそうだが、例によって西武線沿線の駅名や地名が並んでいるのも私小説感が強くてとても良い。1982年生まれの滝口が実際に19歳だったのが2001年であるはずだから、高卒後すぐに大学には行かなかった滝口も東京か、沿線のどこかで9.11を見ていたのかもしれない。強く焼き付いた記憶と、薄れゆく記憶がある中で、電車に乗って移動したことだけはうっすらと覚えているということ。
最初に書いたように、19歳の「私」が東北にバイク旅行するのが筋書き「だったはず」である。しかし実際この小説に書かれるのは旅行中の風景ではなく、2015年の「私」が14年前を思い出すという小説だ。「過去から跳ね返ってくる」記憶の出発点がたまたまバイク旅であった(あるいは房子との思い出)。房子とはその後再会できたのかできなかったのかなど、重要なはずなのに書かれていないことも多い。
「私」の脳内に「跳ね返ってくる記憶」を時系列かき回しながらつづった小説のノスタルジーに思いを寄せながら、「跳ね返らなかった記憶」、つまり「私」が思い出せなかった記憶の存在も思いたい。書かれなかったことにこそ、神が宿っているかもしれないから。
[2024.11.12]