2004年に一度単行本として出たものを、「事件」の映画化帯をつけて2022年にハヤカワepi文庫として刊行している。「事件」は『あのこと』というタイトルで2021年に映画化しているが、「嫉妬」も「事件」もこの訳出に至るまではいろいろな思案があったようだ。なお、原文はいずれも2000年代前半に別々の形で発表されているため、まとめて刊行したのは翻訳権をとった早川書房の事情にあるのだろう。
まず「嫉妬」からだが、別れた男が別の女と暮らすと知った主人公(いわゆるサレ妻の状況に近い)がその新しい恋人であるところの女教師の素性を探る小説だ。私から恋人を奪ったあの女への怨念、という意味では「嫉妬」というタイトルは非常にストレートで分かりやすい。
どこかの大学の教員をしているあの女の博士論文をインターネットで検索ということが2000年代前半にはすでに成立したんだなという新鮮な驚きを感じつつ、私の行動は加速してゆく。しかし本書は私の行動を単に描写するのではなく、行動の背景にある私の思考プロセスを具体的に暴いていく。ゆえに「嫉妬に囚われた想像界」(p.82, 2022)というワードがぴったりと当てはまる小説でもある。
この、主人公の思考プロセスを具体的に書き込んでゆくスタイルは「事件」にも引き継がれる(発表時期はこちらの方が先のようだ)。1960年代のフランスで、恋人ではない男性との性行為の結果、生理が止まって妊娠が判明する大学生が主人公を務める。当時はまだ中絶が違法だったため、医師に人工妊娠中絶を拒絶される。ゆえに「自力でなんとかしなければならない」局面に立たされるのである。
大学生の私はそれでもなんとかして学位が欲しい。つまり何より自分のために子どもを堕胎する決意をして、パリを目指す。そのプロセスがまた痛々しい。文章だけで主人公の感情だけでなく身体的な負荷を伝えることがこれほど詳細にできる作家をあまり多く知らない。だからこそ読まれるべき作家であり、映画化されるきっかけともなったのだろう。
アメリカで中絶合法化のきっかけを作ったロー対ウェイド判決が覆される判決が数年前のアメリカで成されたように、司法の判断は時代によって変わりうる。いい方にも悪い方にも、だ。そしてその司法に人生が左右されるのは、まだ何も成していない名もなき若者である可能性が高いわけで、そのリアリティをフィクションという形で描写してみせたのがエルノーの功績だろう。
訳者の堀茂樹が指摘するように、エルノーの採用した文章のスタイルは純粋な小説の形ではない。それでも、小説と言って良いと思う。小説の自由さが、エルノーの表現の質の高さを導いたことはこの2作を読めば痛いほどよく分かるから。このスタイルでなければ、この小説の凄みとも言える描写の数々はきっと生まれていない。
ゆえに小説にとって重要なのは、何を描写するか以上に、どのように描写するかであるかだ。読み終わったころには自然とそのことに気づかされる中編2本だった。
[2025.2.5]