ゼロ年代の若者は何を失い、どこに向かっていたのか ――メアリー・C・ブリントン(2009)『失われた場を探して――ロストジェネレーションの社会学』NTT出版
去年中公新書から『縛られる日本人――人口減少をもたらす「規範」を打ち破れるか』という本を刊行した著者の、日本語で読める本としては前作にあたる一冊。少し古い本だが、『縛られる日本人』と本書が共通しているのは明確に日本人を、あるいは日本社会に暮らしている人びとを読者と想定して書かれていることだ。
2007年ごろ、ロスジェネという言葉を作ったNHKや朝日新聞もそうだったように、基本的に大卒(とりわけ大卒男性)の就職における挫折がその後の人生にいかに悪影響を及ぼしているかをルポ的に取り上げたものが多かった。本書はそうしたジャーナリズムとは異なるアプローチをとる。一つは高卒者の就職に焦点を当て、非進学校の高校進路指導部を主なフィールドにしていること。そしてもう一つは、高校生を採用してきた企業を調査対象にしている点だ。
計量社会学を駆使するブリントンは、高卒者の進路や企業の求人データなどを計量的に分析し、企業と高校の関係性を分析してゆく。こうすることで、企業が高校生に何を求めているのか、そして高校進路指導部はどのような狙いで企業への就職をあっせんしているのかが見えてくるのである。
ブリントンが明らかにしたことで面白いのは、企業の求人票送付にはパターンがあり、明らかに工業高校が優位であることと、結果的に非工業高校は求人の取り合いになるという競争関係にあることだ。これは新卒求人数が大きく減少した時代である時期に就職を考えていた高校生にとっては死活問題になっていたはずだし、当時流行した自己責任論が当てはまらないこともよくわかる。
非進学校の高校は地元企業と密接な関係を持ち、新卒の生徒を送り出しながら地域経済に貢献する、持ちつ持たれつの関係にあった。でも現在はそうではない。「場」が失われる(この場合は就職先でもあるし、高校の役割の喪失とも言える)ということは同時に、「場」から別の「場」に移行するトランジションの機会を失っている(ロスト・イン・トランジション)のがこの世代の特徴だとブリントンは指摘する。
ここで私が言う「ロスト・イン・トランジション」という言葉には、二重の意味がある。一つは、社会の移行の過程で若者が行き先を失ったという意味だ。いま日本の社会は、根本的な変化のなかにある。若者がまじめに努力して社会のルールを守ればしっかりした「場」が保証された社会から、「場」との結びつきが幻想にすぎない社会へと、日本は移行しはじめているのだ。もう一つは、社会がこのように大きく変化するなかで、若者が大人に移行する過程で行き先を失っているという意味だ。思春期と一人前の大人の間の「どっちでもない場所」にさまよい込んでしまう若者が少なくないのである。
私がこの本でとくに取り上げたいのは、エリートでない日本の若者たちがいかにして「行き先を失ってしまった」かだ。 大学に進学したり大学受験のために浪人したりせず、高卒で就職しようとした若者は、おうおうにして正社員の仕事に就けず、学校という「場」から仕事という「場」にうまく移行できずにいる。高校という「場」はもう離れてしまったのに、社会で一人前の大人になるための条件とみなされてきた次の「場」 安定した勤務先という「場」と結婚生活という「場」――にも移れていない。大勢の若者が大人の「場」に移行できずにいることに、日本の政府や大人たちがいかに頭を悩ませているかは、マスコミの報道や政府の報告書を見ればよくわかる。(p.8)
第6章「モバイル型ワーカーの生きる道」では新卒一括採用が前提になく、生涯において転職が前提にあるアメリカ社会の若者の生き方を紹介し、彼ら彼女らが10代のころからアルバイトやボランティア、その他の課外活動に取り組み、企業や大学が評価していることを紹介する。それら多様な経験を積むことで、若者が対人関係能力などの社会性を身に着けられることが評価されるようだ(しかし日本で高校生のアルバイト経験が企業に評価されることはほとんどない。大学生ならなくもないが)。また、いくつかのウィークタイズが就職につながることも紹介しており、本書で紹介される高校と企業のようなストロングタイズを前提とする高校進路指導とは質が異なることも紹介されている。
第7章では「ポスト・ロストジェネレーション世代」の生き方が考察されている。ゼロ年代と10年代の違いは、「若者の就職難」がさほど問題にならなくなったこと(人手不足のほうが目立っているため)なので、ブリントンが危惧した未来とは少し違う未来を生きているのは確かだが、ゼロ年代終盤の時点でブリントンがどのようなビジョンを持っていたかを振り返る価値はありそうだ。
とはいえ、『縛られる日本人』でも分厚く書かれているように、昔ながらのメンバーシップ型の雇用形態(とりわけ男性の)が大きく変わっているとは言えない。まだまだ古い形のワークスタイルが価値を持ってしまう社会に、私たちは生きている。「決まりきった狭い道を歩まなければ『一人前』の社会人として認めないという態度は、二一世紀の社会がうまく機能するために最善の姿勢とは言えない」(p.218)というブリントンの指摘は、令和の時代にも変わらず響いているように見える。
[2023.2.1]