エトセトラブックスがシリーズで刊行しているムック本の3号目。毎回特定の人物が責任編集を務める方式をとっているが、今回はおさだんなこと長田杏奈がつとめている。彼女については劇団雌猫の書籍や以前読んだ単著などでどのような考えで自身の活動を展開しているのかをなんとなく把握していたつもりだったが、本作『エトセトラ』vol.3の巻頭言を読んでもすぐ分かるように、かなり力を入れて作ってきているのはよく分かる一冊だ。
いままではあまり強い興味をそそられなかったが、今回の特集のテーマである「私の私による私のための身体」という話題について反応している人が身近に多く、ツイッターやnoteを読んでいて具体的な感想やコメントを読むこともいくつかあった。たとえば伏見ふしぎさんは次のような感想をnoteに残している。
桃山商事の清田さんとお話した時、何度か話題にのぼっていて、さらに著書『よかれと思ってやったのに』でも指摘されていたが、男性、自分の体全然大切にしていない(例を挙げると、体を壊すまで仕事をすることが良しとされていたり、体調不良を栄養ドリンクで一発逆転させようとすることなど)。
くだんの感染症でもその思想がたくさんあぶりだされていた。三密なのに飲みに行く、必要なのか謎なのに毎日出勤する、極端だけど「俺コ〇ナおじさん」もその最たる例なんではないか。
自分の身体を大事にできない人は、他者のことだって大事にできない。
たとえば以前読んだ磯野真穂『ダイエット幻想』にも詳細に書かれていたように、女性は子どものころから他人に見られる身体であること。また、初潮以降は月経を定期的に経験すること。さらに、第二次性徴によって身体の形が大きく変わるということ。これらの要素を見ただけでも、男性とは全く違う身体への感覚を持っていることは、自分が女性ではないからこそ感じることができる。もちろん男性としての自分が感じられるのはこうした「差異がある」という事実であって、例えば月経の辛さは分からないし、ましてや妊娠出産の過酷さも感覚的には分からない。
身近なところに辛い、しんどいと訴える女性がいたときに、自分は何もできないなと思いながらその辛さ、しんどさに耳を傾けることはいまでも珍しくないが、こうした個人的な経験は先ほど太字で引用したように「男性、自分の体全然大切にしていない」こととパラレルだと感じたのだ。つまり、多くの男性は自分の身体のしんどさに対して鈍感になりがちだということだ。そして伏見さんが書かれてあるように、自分の身体を大事にできない人が他人をいたわれるかというと、難しいだろう。ではどのようにすればよいのだろうか。
私の場合たまたま身体介助を伴う仕事をしていたり、精神疾患を抱える人を支援する立場である以上、他者の身体のつらさ、しんどさに対しては仕事上敏感になっている側面がある。特に知的障害者や自閉症は言語能力の観点で自身のつらさ、しんどさをうまく他者に表現できない。だからあらかじめ支援者が予測したり、言動などから察する能力が求められる。
こうした仕事で培った技術(というのも変かもしれないが)が身近な他者のつらさやしんどさに対して、いくらか助力した経験も何度かある。そして他者の身体に触れる経験を重ねるにつれ、自分の身体を見返すことも珍しくない。このように自分の身体ではなくまず他者の身体が目の前にあって、その先に自分の身体をイメージとして重ねようとするのは、介助や介護を伴う仕事についている看護職やケアワーカーにある種共通する体験なのではないかと考えることもある。そしてこうした職種のジェンダー比を見た時、全世界的に女性が多くを占めていることは改めてここで指摘しておいていいかもしれない。
やや周り道をしたが、女性と身体といった要素を男性の自分が考える時に、こうした迂回をしなければとらえられないかもしれない、という実感がある。その上で、自分が仮に女性だとしても他の女性がどのように身体をとらえているか、どのような身体感覚を持っているかは容易には分からないとも思う。例えばこの本で取り上げられているような何人かの女性プロレスラーの言葉は、男女問わず誰にとっても新鮮に映るのではないか。共通するもの、しないもの、いずれについてもまず語り合うところからすべてが始まっていくだろう。
その点、「子どもたちが自分の頭で考える・対話するための性教育」というインタビューで登場している現役医師のユニット、アクロストンの言葉と実践はなかなか面白い。改めてここで七生養護学校事件が取り上げられているのも複雑な思いがするが、しかしながらそうした負の歴史をいかに乗り越えていくかでしか未来は切り開かれないのだとも思う。性やセックスについてどの程度オープンにすべきか、あるいはなぜ性暴力や性加害は起きてしまうのか。性教育という視点から広がる話題は広範だし、既存の学校で行われている性教育の委縮に対する強い批判でもあると感じる。
他にも著作に『刑事司法とジェンダー』がある牧野雅子、発達障害を公表している研究者の綾屋紗月、韓国文壇で起きたある事件について論評している翻訳家のすんみなど、「私の私による私のための身体」という特集テーマは実にかなり広い話題を扱っている。各エッセイや論考、コラムを読みながら本作が投げかけたアンケートの回答を見返すような読み方もできるだろう。130ページほどと手に取りやすい厚みだが、あっさり読んでしまうようでは惜しい一冊だ。他者の身体感覚を少しでも知っていくため(そして同時に自分の身体感覚を他者に対してコミュニケートするため)の、その足掛かりとして。
[2020.6.2]