女性たちが<現実>を書くために必要なこと ――ヴァージニア・ウルフ(2015)『自分ひとりの部屋』(訳)片山亜紀、平凡社ライブラリー
女性が小説を書くためには自分ひとりの部屋と年収500ポンドを持たねばならない、というのが本書のスタート地点にある主張だ。ウルフが1928年に女子大生に向けて行った講演をベースにしており、終始語りかけるように文章がつづられているのが印象的だ。
しかしその中身は純粋な講演原稿ではなく、フィクションにも似た形式をとっている。訳注をのぞけば平凡社ライブラリー版で200ページ弱とさほどの長さはないが、第一章から出発して第六章までたどりつくまでにウルフらしい婉曲や迂回を読者は何度も経験する。章ごとに話の中身ががらっと変わるなんてざらだ。その上で、ウルフは女性たちに小説を書いてほしい。女性たちにこそ書いてほしい、という主張をにじませていく。
自分ひとりの部屋と年収500ポンドという言葉には、まずもって女性にとっての経済的自立が念頭にある。ウルフ自身の経歴や生い立ちなども影響を与えたようだが、男性に比べて収入源を多く持たない女性にとって、貧しいままでいることは創作の糧にならない、という主張だ。
もう一つ、自分ひとりの部屋というのは要するに執筆に集中する環境が必要だということ。おせっかいな家族や親族に邪魔されることなく、あるいはそうした家族たちのために忙しく家事をするでもなく、自分の思いを文章にぶつけられる環境があって創作を行うことができるということだ。自分ひとりの部屋を持つ=ひとり暮らし、とは明示されていなかったと思うが、年収500ポンド(片山亜紀によれば年収500万、と置き換えてもいいらしい)の水準を考えるひとりで暮らし、生活を持つことも意識されているといっていい。
片山亜紀も解説で指摘しているが、現在でもそうであるように大学生というのはそもそもお金を持っている存在ではない。どちらかと言えば貧しい側に入るだろう1928年の女子大生たちに向かって自分の部屋と年収を確保しろ、というのはやや無茶な要求に見える。
ただ、時代は第一次大戦を終えたあとの戦間期であり、ウルフは第一波フェミニズムにおける重要な人物としても位置付けられている。そうしたフェミニスト(当時この言葉がどれだけ一般的かは分からないが)であるウルフ、そして世界的な女性作家になろうとしている後期ウルフが、自分の思想と経験を糧に語りかける、と考えたら言葉一つ一つの意味合いが変わってくるということだろう。
女性が小説を書くこと、という点に焦点を当てればもっとも掘り下げているのは中盤にあたる第四章だ。この中でエミリー・ブロンテ『嵐が丘』、シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』、ジェイン・オースティン『エマ』などを取り上げながらシャーロットに年収300ポンドがあればだとか、オースティンとシャーロットだと「執筆の才能はシャーロット・ブロンテに劣るものの、ジェイン・オースティンははるかに多くを語ることができた」(p.135)などといった形で彼女たちのスタイルの違いに触れていく。あるいはここにフローレンス・ナイチンゲールを加えてもいい。彼女たちの功績を見ながらも、彼女たちにできなかったことや彼女たちの前にどういった壁があったか、が語られていくのだ。
創作において詩や劇に比べると小説はまだ歴史が新しく、女性が小説を書くようになったのはそれが「女性の手には柔軟だったから」(p.136)という指摘もしている。とはいえ名のある女性作家は、ウルフの時代であってもさほど多いとは言えない。題材も文体も、男性作家のそれを真似るわけにもいかないとウルフはいう。
このあたりは少し男女の性差を意識しすぎているというか、この流れで女性の書いた本は男性に比べてこうあるべき、というちょっとよくわからない主張にもつながっていくのだが、その主張の妥当性(とりあえず四章終盤の主張はあまり妥当ではないと思うが)は置いておいて、小説にとって女性だからこそできることがある、というウルフの主張の純粋性はよくわかる。
その上で「小説だけを書いてほしいとは言」わず、「さまざまな本を書いていただきたい」(p.188)という主張を最後の第六章に持ってくる。批評家としての自分の無能ぶりを、という自嘲は不要な気もするが、「良い本とは望ましいものであり、良い作家というのは人間の堕落の諸相を呈してなお、良い人間なのである」(p.189)らしい。このへんも、ちょっと純粋すぎる期待ではあると思うが、この次にあるのが先ほど書いた「小説にとって女性だからできること」の本質だろう。
曰く、<現実>をとらえること。
作家というものは、この<現実>を見据えて生きるチャンスに、他のひとより恵まれています。作家の仕事は、この<現実>を探し、収集して、他のひとたちに伝えることにあります。少なくともそれが、『リア王』『エマ』『失われた時を求めて』を読んでわたしが感じたことです。(p.190)
とにかくお金を稼げ、と女子大生たちに繰り返し言うのも、このあとに続けて言う「何よりも自分自身でいることのほうが、はるかに大切」(p.191)だからだろう。経済的な自立は個人としての独立の可能性を意味する。誰かの伴侶だとか、そうした肩書きではなく自分が自分でいること。そうでなければとらえられない<現実>があるだろうということ。こうした、言わば普遍的にも見える視点が最後に用意されることによって、この本自体が繰り返し翻訳されて読み続けられている古典としての価値を持つのだろう。
<現実>と表記されるかっこつきの現実というのはつまりそれぞれの個人が見た現実なのであろう。その多様性を、ウルフは信じているし、期待している。
[2019.4.2]