ちょうど本作が訳出された2019年に映画『コレット』が公開されており、これまであまり知ることのなかった彼女の半生、とりわけ「コレット」名義で作家としてデビューするまでの期間を知ることができて素朴に面白いなと思いながら映画を見たのを覚えている。本作は一度岩波文庫の工藤庸子訳で読んだが、映画を見た後に読むのは初めてなので、映画を踏まえながら本作を読んでいると改めてコレットの人生と、そして当時の時代背景への理解があってこそだなと感じる。
50歳を間近にした元高級娼婦レアと、彼女の半分ほどの25年間しか生きていないシェリとの恋を描く。さほど長くはないので、燃え上がるようなシェリとの恋愛や情事から、そしてそれをレアが自身の手で終わらせるまでのお話。それだけのようで、それだけではないのがポイントかもしれない。
シェリは友人であるプルーの息子なので、本当に親子ほどの年が離れているわけだが、そんな年の差の恋愛に溺れることに合理的な理由がないという自覚を持ちながら、シェリを容易に手離すことのできないレアの複雑な心の動きがまずある。
高級娼婦として社交界の多くの男性に求められ続け、そして資産も築くことができた。金利だけで生きていくことができるという記述や、それでも新聞で投資情報をチェックするといったかなり堅実な面を見せながら、他方でだからこそ自由で常識はずれな恋愛に溺れたいという欲求がレアの中で駆動していることもよく分かる。
他方でシェリは、そんなレアの複雑な心の動きをおそらくは正確に理解していない。年上の女性に求められる喜びというよりは(もちろんそれもあるが)25歳の青年という自分の価値を理解しながらレアとの恋愛や情事を遊びのように楽しんでいる側面がある。だからシェリはレアを振り回すが、レアはそうしたシェリのことをなかなか手放せない。年の差ゆえに生まれる「かわいい」という感情は、なかなか厄介なものである。
そんな二人の持ちつ持たれつの関係の中で、シェリの結婚という話が舞い込んでくる。レアとの結婚ではなく全く別の、シェリと同世代の若い女性との結婚だ。結婚するという前提でもさらにレアを振り回すシェリと、自分が求められなくなる、あるいは若い婚約者と必然的に比較されてしまうという屈辱を感じるレアは、もちろん冷静ではいられない。
そのレアを支えたのは誰か。それは彼女が築き上げてきた経験と、つながりだろう。シェリの母であるマダム・プルーや「リリねえさん」など、登場する回数は多くないがレアの周囲には魅力的な女性たちがいる。パトロンなどの形で周囲には男性もいるが、日常生活において周囲の女性の役割は大きい。いわばシスターフッドのような連帯感の中で、レアは自分の人生を生きているのだと思えた。(こうした表現は、コレットがレズビアンだったことと無関係とは言えないと思う)
逆にシェリにはそうした豊かな人間関係はまだない。未成熟で人生経験が浅いシェリは青春真っ盛りで、レアや婚約者との恋愛に夢中だ。こうした生き方の対比に時代背景を重ねながら読むことが、遠い時代の読者ができる楽しみ方だと思う。これまで書いてきたようにシェリとレアの関係は年の差恋愛あるあるなネタも多いが、しかし本質はそこではない。老いゆくレア、しかし仲間にも囲まれた彼女ののために書かれた、彼女の人生や生き方を肯定するためのコレットからの贈り物が本作ではないのか、と。
[2021.4.8]