主人公である梓川咲太と(メイン)ヒロインである桜島麻衣が大学に進学し、実質的に新章に突入したシリーズの初回であるが、なかなか今回も面白く、1時間と少しで一気に読んでしまった。
作中に言及されている金沢八景近くの市立大学という手掛かりをもとに考えると咲太と麻衣が進学いたのはおそらく横浜市立大学である。昔会ったことのある市立大の人の姿を少しだけ思い浮かべつつ、高校生から大学生になることへの心境の変化を読んでいくといろいろなことが懐かしく感じる。クラスや制服がなくなること、人間関係も自由になること。その自由を使いこなすことが案外難しい。
咲太が相変わらずスマホを持たない生活をしている設定なのはすごいなと思ってしまうが、彼にとってのスマホ、彼にとっての人間関係がどのようなものなのかはこれまでにも度々本人の口から述べられているからあえて触れる必要もないのだろう。大学生になっても、スマホを持たずに人間関係を築く様を読んでいくのは(いささかリアリティに欠けるかもしれないが)面白い。彼を遠ざける人はいるし、逆に彼に興味を持って近づく人もいる。このあたりの距離感の描写は、人間関係を自由に設定できる大学生活においてはリアルなものだ。
大学生になったことで同級生の美藤美織といった新キャラは登場するが、本巻のメインヒロインは豊浜のどかも在籍するアイドルユニット、スイートバレットのメンバーである広川卯月である。彼女も同じ大学、同じ学科に在籍しているが、ある講義の開始前の彼女の挙動を見て、咲太が感じた違和感。そこから物語は一気に展開されていく。
彼女の悩みを因数分解するならば、自分が本来やりたいと思っていることと、周囲が期待している自分でいたいことが分裂して同居していることだ。前者はユニットとしての目標ともダブる内容で、ありふれた掛け声かもしれないが武道館という具体的な目標を指している。また、演じることのない、天然とも指摘されるほどの素の自分でいたいということ。後者は、空気を読んでキャラを演じることによって周囲の評価を受けたいという欲求だ。
ユニットの中で卯月だけが持っている才能が評価され、彼女個人の仕事(歌唱、テレビ出演等)増えていく一方で、ユニットとしても2000人の箱を埋められるようになり、Zeppダイバーシティがモデルと思われる場所でのライブも経験する。
広川卯月として活動しながら、ユニットとしても活動することに少しずつ時間的、体力的、精神的な限界が迫っていく。これまでも桜島麻衣と母親との確執を書いていたが、今回も広川卯月や豊浜のどかを通して「ビジネスとしてのアイドル」を取り巻く現状や、いわゆる大人の事情が導入されていく。これらに彼女たちが個人として抗うのは、容易ではないだろう。
ではどうするのか。一つは決断である。分裂した状態を続けることは難しい。ならば、何かを選択するしかないのは自然なことだ。ではどうやってそれをすればいいのか。卯月が選択するのはまず、自分の気持ちを隠さず表に出すこと。空気を読みすぎることが逆に自分を苦しめていることを知った彼女は、自分に素直になることで現状を打破しようとする。
「そういうのがわかるようになって、大学の友達が言ってる『 卯月 ってすごいね』の意味も理解したら……今までいろんな人に言われてきた、いろんな言葉が気になるようになっちゃった」 顔を上げた 卯月 は、どこか遠くを見ていた。目の前には 武道館 があるけれど、それを通り越してその先を見ている感じがする。いや、何も見ていないのかもしれない。 「私の頭の中に、みんながいて、みんなが色々言ってて……いちいち聞いてたらさ、何が自分なのか、わかんなくなってきた」
kindle版、位置No.3089
この、「何が自分なのか、わかんなくなってきた」卯月に対して真摯に向き合う咲太はカウンセラーとしての才能に満ちているなと感じる。美人の友達が多いね、と何度か大学の友人に指摘される咲太であるが、同性だけでなく異性の友人が多いということはそれだけ幅広くラポールを築くことができるのだろう。それはおそらく、彼自身が妹の経験を通して人の痛みや傷に敏感であり、傷ついた人のそばにいることを自然に選択してきたからだろう。
その意味では咲太がモテる理由が改めて分かるし、ああこのシリーズはルート分岐のないノベルゲームのようなものだなと感じた。1巻でメインヒロインの桜島麻衣と結ばれた以上、トゥルーエンド後のアフターストーリーがずっと続いているようなものだ。それ以外の展開は同人誌でも読めばいいのかもしれないし、新しいヒロインが次々と登場すればするほど麻衣との関係が深まっているのも憎めない。終盤のある展開は恋人というよりもはや……である。新しい巻が出るたびに関係の進展を読むのが楽しい。
最後に。広川卯月の最終的な選択を卒業と評した咲太はお見事だ。一般的な卒業でもなければ、アイドルとしての卒業でもない。けれど、彼女が次のステップへ進むために下した重要な決断を評するには、とてもふさわしい言葉なのは確かだろう。
[2020.02.12]