最近『人間の絆』を読んでモームの書く人間像やキャラクター描写が面白かったので、続けて本作を読んでみることにした。長編というほど長くはない本で、一時間と少しくらいでさくっと読むことができた。短い中で死人が出る小説なので後味がいい本とは言えないが、モームの書く男女の感情の機微や恋愛感情の面倒くささは健在である。
夫を亡くして独り身になったメアリーは、イタリアはフィレンツェを訪れる。滞在の初期は観光に明け暮れ、トスカーナ地方の空気を存分に感じる中で、エドガーという昔なじみのイギリス高官から情熱的なプロポーズを受ける。美しいと評判のメアリーもすでにアラサーになり、自分が常に選ばれる立場ではない中、しかしすでに50代になったエドガーの申し出をどのように受け取っていいか逡巡する。
その逡巡の間に現れた二人の男、ロウリーと、カール。ロウリーは同い年で、カールはまだ20代前半の若者。三人それぞれとの関係を楽しんでいるうちに、選択の時は迫ってくるという筋書き。いずれにせよ、メアリーの気持ちとその本気度はさほど信頼できるものではない。
それを前提とした上でメアリーにアタックしてくるエドガーとロウリーのこっけいさをまずモームは書こうとしているように見えた。一人の美しい女性をめぐって、地位や名誉など関係なくすべてをささげようと(少なくとも言葉の上では)するのが恋愛における男性の役割と言えばそうなのかもしれないが、モームは男性に対しても、そしてメアリーに対しても引いた目で観察しているのが伺える。
三角関係を書くだけならば、カールを登場させる必要はない。しかしカールは物語の中盤にようやく登場し、悲劇的な形で退場していく。ある意味物語の作劇上「かませ犬」のような存在になってしまっているが、実はエドガーやロウリー以上に重要なのがカールの役割なのだと思われる。
それは、男女関係のもつれが一つの悲劇を招き、そしてその悲劇がさらなる混沌を生み出すという現実の残酷さや儚さをこそ、モームが書こうとしていると感じたからだ。ゆえに、エドガーやロウリーと言った、「キャラの立った」男性たちが狼狽する様も含め、モームは小説の中で戯画化している。50代なのに若い女性に入れ込むおじさんや、女性を口説きながらアルコール依存であることを辞められない男、のように。
物語の最初の段階では選ぶ余裕があったはずのメアリーは、物語が終わるころにはとてもじゃないが選ぶ余裕などなくなっていく。ゲーム的に利得を計算するような行為は容易に現実化しないし、恋愛における優位は容易に崩れ去ってゆく。そして、恋愛における駆け引きは当人たちにとってはロマンかもしれないが、一線を引いたところからすると醜いものにもなりうる。
いずれにせよ、モームが書こうとしたのは人間の感情のそうしたネガティブな側面が恋愛という輝かしい行為においても確実に内在している(しかし隠されている)ということの妙味なのかもしれない。短い小説だが奥が深く見えるのは、そうした人間関係の面倒くささを丹念に、しかし批判的に書こうとしたからだろう。
[2021.4.13]