早乙女ぐりこの同人誌をレビューするのは今回で3冊目になる。前作『#恋と似て非なるもの―早乙女ぐりこ日記―』に続き、彼女がウェブサービスnoteで毎日欠かさず書き続けた日記をまとめた同人誌の、後半部分に当たるのが本書だ。後半部分の本書は2020年1月から7月までが収録されている。
期せずしてこれは、COVID-19が日本に「襲来」してきた時期と重なる。東京に暮らす彼女は、襲来によるインパクトを大きく受けた一人だろう。とはいえこれはあくまで日記であって、ルポルタージュではない。社会状況が大きく変わっていく中で、手の届く範囲の日常をみつめ続けてきた彼女の軌跡だと呼んだ方がよい。
あとがきで彼女はこう記している。
もし日記を書いていなかったら、コロナ禍の記憶をたどったときに、辛いニュースや閉塞感しか思い出せなかったかもしれません。日記という形で日々の些細な出来事や自分の心の動きを書きとめ続けたことで、すべての一日が自分にとっかけがえのないものだったと思うことができました。(中略)
ただぼんやりと過ごしていただけでは、自分が大切にしたいものを守ることはできないと考えるようになりました。おかしことはおかしいと、嫌なものは嫌だと発信し続けないと、あっという間に全部奪われていくと思いました。(p.229)
最初の段落の引用は、まさしく本書のスタンスそのものだと言える。それに加え、後者もまた、重要な要素になっている。例えば本書の最初の方には医学部入試問題やAEDについての言及がある。医学部入試問題は一部の医学部や医大で行われていた、女子や浪人生を入試で不当に扱う行為に対してネットを中心に盛り上がった抗議運動や一連の訴訟である。AEDについての言及は、女性に対してAEDを使用するとセクハラ扱いされるという、根も葉もないネットの噂である。
これらはいずれも、女性が女性と言うだけで、一方的な(とりわけ男性中心的な)偏見や差別によって不当に扱われる構図だ。2020年になってもまだまだこうした偏見や差別は至るところに温存されている。だからこそ、「嫌なものは嫌だと発信し続けないと、あっという間に全部奪われていく」といったスタンスは、「日々の些細な出来事や自分の心の動き」の延長にあるものだなと感じた。「個人的なことは政治的なこと」はフェミニズムの有名な言葉だが、すべてが政治的なイシューにならないとしても「個人的なことは社会的なことと無関係ではありえない」と読み換えることもできる。
誰の日常も、それは社会の一部であるということ。つまり「日々の些細な出来事や自分の心の動き」をみつめ、記録に残すということが、著者に対しては何より読者に対しても価値を持つ可能性があると感じる。誰が何をどう受け取って、そしてそれがどのような行動につながるかは分からない。
もちろんすべてが社会的なものに接続されるわけではないにせよ、米澤穂信『さよなら妖精』で印象的だった「過去って、本当にあったのね」のセリフ、つまり未来の人が過去を発見できるのは、その時代を生きていた誰かが記録を残しておいてくれたからだ。だからこの世には、あまたの日記やエッセイが存在し続けるるのではないかとも考えた。「ただ書く」だけじゃないからこそ多くの人が書き残していくのではないか、と。
また、本書においてサウナに行く、コーヒーを淹れる、あるいは筋トレをするといったソロ活動的な描写も印象に残った。前作ではT氏や仕事関係の人、あるいは友人たちとのコミュニケーションの妙味や関係性の変化や機微への気づきなどの描写が印象的だった。今回は状況が状況のせいか、これまでの人間関係といったん距離をとったりラインを引いたりした上で、新しい日常を再構築していく営みの記録になっているのもまた面白い。(読者である自分が同時代人の同世代だからこそ、著者によるリアルタイムな記述に強く惹かれるのだろうとも思う)
例えばサウナについて「サウナをセックスに喩えるの、あんまりピンと来ないと思っているけれど、ついそんなことを考えてしまうくらい気持ちよかった」(p.192)と記しているのは、日常そのものへの向き合い方が変わったからだろうか。あるいはそれとは無関係にサウナの魅力に浸っていることの表れだろうか。などなど、想像が膨らむのは楽しい。
前作に続いて今作も著者の持つ観察眼といったものが非常に魅力的に見えた。それはCOVID-19のような、目に見えない巨大なものが襲い掛かっている現在だからこそ、他者とは違うものを見つめられるセンスや能力がより魅力的に見えるのかもしれない。
社会がどれだけ大きく揺れ動いても、大きくはないが身近なものや、小さいけれど些細な事の価値が減じるわけではない。むしろより大事なものになっていくかもしれない小さな日常の愛し方を、この日記本は詳細に、かつ丁寧に教えてくれる。
[2021.2.28]