表題作は前回の芥川賞候補発表時にすでに『群像』で読んでいたので(これで芥川賞はさすがに厳しかったようだ)再読となり、もう一つ収められている「生き方の問題」は初読となった。
「生き方の問題」は手紙、表題作は日記と、いずれも書くことを題材にしている。日記は本来誰かのためにあてたものではないが、本作の場合は日記を書くことになった叔母や叔母の死が必然的に介入してくるので、結果的に手紙に近い要素も持ち合わせていると言える。特に「生き方の問題」を読んだあとに表題作を読むと、そういう風に読まされるようにも思う。(あくまで個人的な読み方だが)
どちらの小説も、たとえば「生き方の問題」であれば従姉の存在が、表題作であれば叔母の存在が、いずれも小説の中ではほとんど不在であるにも関わらず(叔母はすでに早逝している)存在感が極めて大きい。このようなタイプの小説は純文学では珍しくないので、芥川賞にまでたどりつくには何らかの形で変化球が必要だったのだろう。では表題作である「最高の任務」には変化球的要素が欠けているだろうか。そうではないと考える。
確かに従姉との個人的なエロチシズムを書いたとも言える「生き方の問題」の方が変化球的であり、そしてある意味ではオーソドックスに文学的である。いとこ同士だと結婚できるというワードも自覚的に挿入されているように、最初は抑制的に書かれた手紙の文面が次第に性愛を表に出してくるのは分かりやすい。そもそも本編のほとんどすべてが手紙であるかのように書かれていること自体を読者はすぐに疑うことはできるが、その顛末が重要ではなく、手紙を書くことで従姉との関係について回想する主人公の「生き方の問題」の方が重要な短編である。
やや雑な解釈だが、このように考えると表題作は「最高の任務」とは何かという問いに当たる。しかしこの小説の場合、そこはあまり重要ではない。重要なのは「追悼の方法」であろう。主人公である女子大生が自分自身の半生とどのように向き合うのか、叔母との関係をどのように振り返るのか。
残された謎についてどのようにアプローチするのか。ある意味この小説も、性愛が強く絡むわけではないが「生き方の問題」についての問い直しでもある。そもそも大学の卒業式に親を呼ぶかどうかとか、かつて受けた公務員試験の面接をすっぽかしたとか、こういった一つ一つの行為の選択も、小さいけれども自分や家族を巻き込んだ「生き方の問題」には違いない。
それと、表題作の主人公である私と叔母の関係に性愛は介在しないが、百合的な関係性を読みこむことくらいは許されてもいいだろう。
[2021.5.6]