このたび7年ぶりに再読した。7年前は高松市内のあるカフェで集中的に村上春樹を読んでいた時期で、それ以来になる。その店には春樹の過去の小説が大量に置いてあり(春樹以外もあったが半分ほどが春樹だった)、多くの小説を読んだ。その中でも、春樹の中の「短い長編」として印象に残ったのが本作であったため、今回新たに購入して読み直すことにした。
あらすじとしては、人生がそれなりに順調な30代の男が過去の女の幻影に翻弄されるお話、と解釈するのがストレートだと思う。違う見方をするならば、あまりにも人生が順調なのでいくらか退屈さが漂っていて、そうした退屈さが過去の女との再会というロマンを過剰に求めてしまう心理に繋がっているのだと思う。もちろんそのロマンに頼る事は現在の生活の破綻を意味するので、島本さんのとった行動は合理的なものだ合理的かつ、主人公にとって優しい行為であるだろう。
ハジメは青春時代に二人との別れを経験する。一人が島本さんで、もう一人がイズミだ。島本さんとは幼いころに出会って別れたため、それ以上の体験はない。イズミとは交際関係になり、深い関係にもなっていく。ただ、イズミとの関係は途中で止まる。そのため、イズミの従姉とハジメは行為を持つのだが、そうすると必然イズミとの関係は難しくなり、イズミとの関係は終局する。
大学を卒業して教科書会社に就職するイズミだが、単調な日々に次第に鬱屈していく。八ヶ岳への旅の途中でのちに妻となる有紀子と出会い、仕事も辞め、有紀子の父(ハジメにとっての義父)に「投資」される形で青山にバーを開く。主人公がバーを開くのは村上春樹あるあるなので特に深く触れないが、やりたくないことよりもやりたいことで生きていくというハジメのスタイルを表すために、バーの開店は意味を持っている。
ある意味、このやりたくないことから回避したいというハジメの行動が、後々の女性関係と仕事の両面に影響を及ぼすようになる。先ほど退屈ゆえに望ましくない行動に走っていたのではと触れたが、この退屈さはやりたくないことの回避行動をドライブする形になっているのだろう。だからこそ、突然現れた大人になった島本さんに対して、当然のように困惑しながら、当然のように彼女に惹かれてゆく。その後の展開がどのようなものになるのかは、村上春樹の読者であればおおむね想像はつくのだが。
もう一つ、不動産業を営む義父に気に入られる中で、さらなる義父の投資の誘いにハジメは困惑する。儲けられる機会に、最大限儲けようとする義父と、その儲けるための手法や背景にはハジメの望まない形が見えることとの間におけるギャップゆえの困惑である。資本主義の社会において義父のような行動パターンは珍しくない。
この小説が成立したのはちょうどバブル崩壊後の1992年なので、当時の読者は義父の行動や思想をある程度批判的に見られただろうし、同時代人として距離をとる難しさもあったかもしれない。しかしそれから30年ほど経過し、30年前とは比較にならないほど大きくなったグローバルな株式市場や不動産市場を考慮すると、また見方が違ってくる。新自由主義があちこちに浸透している現代社会において、ある意味また義父への違和感やハジメへの共感が強まる時代でもある。
そうした時代に読み返す小説として、ハジメのような生き方は珍しいものではなく、良くも悪くもありふれていると思う。そうすると、30年前にはすでに彼のような生き方が模索されていたのかもしれない。音楽とアルコールと恋愛を楽しむいかにも村上春樹的なキャラクターの姿を追い、彼の人生の行く末を想像することは、いま同世代の読者(つまり筆者のような)にこれからの生き方を突きつけてくるようでもある。
時代背景が違うものの、「過去との再会」を題材にした『多崎つくると、彼の巡礼の旅』と比較しながら読むのも面白いかもしれない。主人公の思想や生き方、彼の行動や決断、その結末などを。
[2021.5.23]