亜紀書房から「となりの国のものがたり」シリーズとして刊行されている韓国文学の翻訳作品。本国で2018年に第36回シン・ドンヨプ文学賞を受賞している。本シリーズではチョン・セラン『フィフティピープル』の次に本作が刊行され、本作の次はキム・エラン『外は夏』が刊行されたが、本作もその二作に匹敵するほどの粒な小説であった。
内容としては、レズビアンの娘と、その性的嗜好を容認できない伝統的な生き方をしてきた母親の構図を描いた小説だと思っていた。あらすじを把握した時点では、である。確かに一面的にはそういう小説に読める。すべて母親視点で物語が展開されるため、娘のグリーンやそのパートナーであるレインの内面は部分的にしかわからないが、娘のことを大事に思っているはずなのに娘の行動を容認できない母親自身の内面の揺れ動きについては非常に詳細に書かれている。
まず母の視点について書いていこう。普通の結婚をして娘を生み育ててきた彼女からすると、大学に進んだと思ったら大学院にも進学し、非常勤講師っぽい仕事(グリーンの職業は明記されれていないため推測)をしている娘グリーンとのわだかまりが埋まらない。
母としてはそもそも「グリーン」という娘のイングリッシュネームに違和感が強く(逆に韓国の若い世代には珍しくないのだろう)「伝統と我慢」を重んじてきた彼女からすると、「革新的」かつレズビアンというクィアな彼女は非伝統的かつ反伝統的でもある。そのグリーンがひょんなところからレインというパートナーを招き、家の中に女3人という構図が出来上がるのだ。
では彼女はどのような仕事をして生計を立てているかというと、老人ホームの介護職というこれまた恵まれているとは言えない立場で生活している。しかも派遣社員という立場の居心地の悪さ、課長とのそりの悪さ、さらには認知症専門のフロアへの違和感(まるで人権がないかのように利用者を扱うことについて)などなど、家の中だけでなく外側にも悩みは尽きない。
だが、その彼女の癒しになるのが自身の担当する高齢者、ジェンである。ジェンの持つ素朴な優しさ(もちろんこれは認知症ゆえかもしれない)は、どだい肯定や承認されることのない彼女の人生を、生活を明るく照らしてくれる。そして読み進めていけばいくほど、彼女にもまた強い信念があることがよくわかる。
なるほどこのようにして、婉曲的に娘との和解を果たすのかと思った。いや、本当の意味での和解はずっとまだ先なのだろう。ただ、ジェンが彼女を受け入れたように、彼女もまた娘を受け入れる機会を探っていたのかもしれない。決して分断を作りたいわけではないのにそうさせてしまう違和を、柔らかく破壊するように。
最後まで読んで思うことは、つまるところ母娘関係の複雑さを描く中で、韓国社会の抱える悩みや痛みを同時に描くことができていると感じた。社会には様々な不正義が存在する。他方で、社会の不正義に対して抗っていく強さも韓国の人たちには宿っている。その意味では、広い意味でこれもポストセウォル号事件の文脈で読まれうる小説かもしれない。
1980年代生まれのキム・ヘジンは世代的にも価値観的にもグリーンの側に近いだろう。ただ、彼女は近い立場ではなく親世代やそのまた上の世代という、遠いところの視点を正面に置きながら、社会全体に通じる問題意識を書ききった。ここに、作家としてのキム・ヘの優れた能力を感じた一冊でもあった。今秋翻訳が刊行されている予定の彼女の出世作『中央駅』も楽しみに待ちたい。
[2019.10.1]