1978年に韓国で刊行された本書は現代まで続くロングセラーとなっているようで、斎藤真理子による訳者あとがきによると韓国では約130万部を記録しているらしい。1978年は、大統領暗殺や光州事件などを経て民主化に至る1987年まではまだ少し遠い、戦後の軍政期の空気が描かれているといってよいかもしれない。そして、「こびと」と名指される労働者階級の家族を主軸に据えた物語であるため、その描写はいずれも厳しく痛烈である。
「こびと」が具体的にどのような存在を指すのかは、最後まで明示されていない。ただ、こびとが多くの人々から侮蔑され、披差別的な扱いを受けていることは詳細に描写されている。暴力や虐待といった直接的な残酷な描写はそれほど多くないものの、そこにいるのにいないかのように扱われる描写や、親がこびとであるという理由でいじめられ、迫害される子の描写など、どちらかというと人間心理の陰湿さが主軸になっているように思われた。
訳者あとがきによると別々に発表された短編と中編をひとつにまとめたものになっているようで、10–20ページほどで終わる短編(「メビウスの帯」や「陸橋の上で」など)もあれば、60ページ以上を要している表題作など、様々である。別々に発表することは軍政期における検閲をまぬがれたり被害を抑えるための常套手段だったようだ(p.349)。
障害や貧困、行政による代執行(立ち退き)などいくつかの社会問題が凝縮されている一冊となっているが、チョンセや入居権といった韓国固有の不動産事情を考えると、「生活を営む場所を簡単に奪われてしまう人々の物語」だなと思いながら読んでいた。労働の苦悩や資本家との労働争議や裁判に至るまでの苦悩や生きづらさはこの階級の暮らしを描写する上でのリアリティを大きく担保している。
その上で小説としてのダイナミズムが生かされている「過ちは神にもある」や「トゲウオが僕の網にやってくる」を読んでいると、この時代の韓国にあったのだろうと思われる抵抗の論理を読み取ることができる。ただただ強い者に屈するだけではなく、弱い者が人間としての矜持を見せることで、リアリズムの上に物語性をかぶせることに成功しているように思えた。
映画『国家が破産する日』や『半地下』で描写されるように、労働者階級にとっての住居の問題は時代や政治体制が変わっても根深く、あるいはさらにエクストリームな状況になって韓国社会に横たわっている。本書がロングセラーになっているのは、現代の人々が自国の負の歴史を知るという側面もあるだろうが、まだ完全には歴史化されず、現代まで続いている問題が描写されていることにも由来しているのだろう。こびとが打ち上げた「小さなボール」は、刊行から数十年を経ても空に打ち上げられたままなのかもしれない。
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[2022.11.27]