【第36回サントリー学芸賞(政治・経済部門)】歴史的に公教育費の少ない日本で、「教育の公共的意識」の醸成は可能なのか ――中澤渉(2014)『なぜ日本の公教育費は少ないのか――教育の公的役割を問いなおす』勁草書房
なぜ日本の公教育費は少ないのか、という直球のテーマで勝負した一冊で、2014年のサントリー学芸賞(政治・経済部門)も受賞している。GDP比でも、また歴史的にも日本の公教育費は少ない。その理由を探るため、骨太な議論を展開している。
本書は大きく分けて二つに分かれて構成されており、前半は近代化における教育を検討した上で、各国の公教育について比較検討して行く。その際に筆者が試みるのは、アンデルセンの福祉国家論や後のアンデルセンへの批判などを活用した福祉レジーム論を引用しながら、教育政策における費用負担についての分析を行っているところだろう。
日本では医療や福祉に対する負担の認識と、教育に対する負担の認識が大きく異なることをまず明らかにしている。そしてこうした認識は現在がそうであるというだけではなく、日本の近代史的に形成された人々の意識が大きく影響していることをも示している。この点については、ネットでよく目にする「シルバーデモクラシーだから高齢者への医療や年金などの支出が多く、教育費の公的負担が少ないのだ」という指摘は明確に間違っているとも言える(第2章~4章)。
後半の分析は財政学や戦後政治と教育行政の関係を振り返りながら、現代政治に焦点を当てている点だ。とりわけ2009年に政権交代を果たした民主党が目指していた方向性と、それがなぜ挫折したのかについて詳細な分析を行っている。民主党の試みと挫折の振り返りは2013年に日本再建イニイシアティブが試みており、本書でもたびたび引用されているが、こども手当の議論や人々の意識をフォローしながら教育に議論を移してゆくところに本書の特徴が見られる。
医療については国民皆保険の社会保険で運用されているし、介護についても2000年から介護保険での運用が始まっており、「社会全体で負担するものだ」という認識が強くなっている。他方で教育については日本の戦後史を見てもそういった意識は薄い。この差、そしてこの差がなぜ生じているのかに著者は着目する。
大学の学費についても学費の負担を減らそうという文脈ではなく、私立の学費と国立の学費のギャップを埋めるために国立の学費を上げるという方策をこの国はとってきた。一部の大学での反対運動はあったものの大きな社会運動に発展しなかったのは、日本の特徴と言えるかもしれない。教育は私的なもので、社会便益であるという意識が弱いことも、いくつかのデータで著者は示している。そして、「教育は私的なもの」という認知が歴史的に形成されている経緯を考えると、長年積み上げてきたものを修正するのは容易ではない(経路依存性)だろう(第6章)。
教育への公的支出とは違うが、子育て支援の文脈で子ども手当についても検討している。当時の民主党が意欲的で、政権交代後すぐに取り組んだわりに国民の支持は高くなかった。結果的に財源の問題などで右往左往したり、他の政治的事象(普天間移設の問題)に対する支持の低さなどが原因で、うまくいかなかったことで、挫折を経験したことが民主党の政策を見えづらくした。
子ども手当に象徴されるような「コンクリートから人へ」の掛け声には賛否あったが、こども手当以外にも高校無償化などを提案していたことを考えるとパッケージとして人的投資に政治が力を注ぐというメッセージが見えづらかった。教育の公的負担が少ない日本で公的な人的投資を増やすことには意義があったはずだが、そうしたメッセージを国民に届けることに失敗したことが支持を失っていく要因の一つだと著者は指摘している(第7章)。
本書のまとめにあたる「終章」の部分では、本書の議論を総括して以下のように指摘している。
本書の分析から言えるのは、日本人の間で、教育があまり公的な意味をもつものと認識されていない、ということである。だから親が子に対してできる限り支払ってやるのが親心として当然になり、また教育達成は個人の努力によって獲得された私的利益と見なされる。高価な高等教育ほど、私的負担が重いということは、そこで得た結果や利益も私的なものと見なしやすい。 日本の教育費負担に関する問題の一つは、ここにあると思われる。
また日本社会において、教育の公的なベネフィットを感じる場面が少ないことも、おそらく問題の一つと考えられる。これは結局、(筆者を含め)教育に携わる人々に厳しい意見を突きつけることにならざるを得ないが、学校教育が一体何の役に立ったのかわからない、という多くの人が共有する見方が、公費をつぎ込んでまでして維持しなければならないという意識を弱めているのだろう。そうなると、結果的には凡庸な結論になるが、社会的には教育の公共的意識を説得すること、それにより世間の納得を得るように努力するしかない。(pp.363–364)
確かに政策提言としては凡庸だが、多くの国民は著者の問題意識や指摘をそもそも知らないだろうし、前述したように経路依存的に私的負担が当たり前になっているため、知る機会がない。こうした状況を「歴史的に形成された未学習」と捉えると、「公教育には社会的な価値があり、そのために公的負担を増やすことが長期的に望ましい」という認識を政治家などの影響力のある個人が広めることができれば認知の変化が起こるかもしれない(より現代的には、TikTokerやYoutuberなどのインフルエンサーがオピニオンリーダーとして登場しても良いかもしれない)。
いずれにせよ歴史を切り崩すのは容易ではないが、本書の刊行後の2020年には高等教育の就学支援制度の拡充が図られるなど、わずかながら公的負担の増加の余地も見られる。他方で生活保護世帯が世帯分離なしでは大学進学が難しいといった課題もある。
このようにまだ道半ばではあるが、少子化時代であるがゆえに、あるいは「子どもの貧困」が社会で大きく取り上げられる時代であるがゆえに、一人一人の子どもの教育について考える余地や、「教育の公的役割」を問いなおす余地が以前よりも生まれているかもしれない。本書の問題意識や分析は、これからの時代にこそ生きるものとなりそうだ。
[2023.2.10]