前回マルケスの小説を読んだのは確か『族長の秋』だが、調べてみると5年半ほど前のことであり、久しぶりのマルケスに挑むことになった。これまで読んだ『百年の孤独』や『族長の秋』に比べると、マジックリアリズムの色は濃くない。シモン・ボリーバルという高校世界史にも登場する実在の人物(実在の英雄と言ってもよい)を取り上げていることがその要因の一つだろう。
かといって単純な歴史小説にはしないのもマルケスの小説の魅力である。マジックリアリズムというだけあり、時間と空間の使い方が特徴的であるがシモン・ボリーバルの晩年を取り上げることで、彼の生きて来たかもしれないが良く知られてない時間、人生の残り時間と言ってもよいものを感傷的に表現することにこだわっている。であるがゆえに、感情のこもった一人の人間であり、一人の男である存在として描かれるわけだ。
ボリーバルの侍従と言ってもよい召使、ホセ・パラシオスの語りによってこの小説は始まる。この小説の終わり、つまりボリーバルの臨終の場面直前までボリーバルのそばにいるホセ・パラシオスは、奴隷の身分のままその役割を果たし続けてしまったため、ボリーバルのそばに居続けることしかできなかった。それが人生のすべてだったのだ、というもう一つの感傷がこのキャラクターに投影されている。時代や歴史の渦の中で役割を全うした存在だと言えるだろう。
そのホセ・パラシオスが見る将軍ことボリーバルの姿は役割を全うした上での姿であり、一人の将軍としての姿だ。だが、マヌエラ・サエンスの見る将軍の姿はまた異なる。幾人かの女性との恋愛模様が時折描かれるが、その中でもボリーバルが長い時間をかけて愛した存在がマヌエラだった。マヌエラはボリーバルの臨終には立ち会えなかったものの、彼女もまた特別な思いを抱き続けて来た、そうした女性である。将軍を愛しただけでなく、戦場を駆けた女戦士でもある。
自分の後継者候補だったスクレ将軍や、政敵のサンタンデールなど、多くの魅力的なキャラクターがボリーバルの晩年に登場し、物語を彩っていく。木村が訳者解説で何度も司馬遼太郎を引用しているが、司馬が書くような生き生きとした歴史上のキャラクターたちの存在に思いを馳せながら読むのがとても楽しい。
司馬のようにマルケスも膨大な書物を集め、読み込んで本書を書き上げたようだ。そのため単純な歴史絵巻として読むのももちろん楽しいが、ボリーバルの周りにいた(かもしれない)キャラクターたちの躍動を読むことこそ、小説というジャンルで歴史を表現することの面白さの一つだと思う。本書こそまさに。
[2023.4.24]