乗代雄介はデビュー作からずっと読んでいて、本作は芥川賞候補にもなったのでお、そろそろ順番が回ってきたかな?と思ったが実際に受賞し、その後も含めて話題をさらったのは宇佐見りん『推し、燃ゆ』だった。結果的に隠れることになった本作だが、この小説が持つ構成や構造がその後別の賞(三島賞)で評価されてことはよかったと思う。
好書好日のインタビューで乗代自身が述べているように、著者自身が作中の登場人物たちが歩いたルートを、同じ時期に実際に歩いている。そこで実際に見た風景や光景が、リアルなものとして作中に投影されている。つまり、乗代自身があらかじめ「旅する練習」を行い、そこにフィクションの要素を加えて小説化された、と解釈したほうが良いかもしれない。作中に登場する「私」は塾講師の経験がある小説家という設定だが、これも乗代の経歴をあえて被せているのだろう。
2020年3月という時期が重要なのは、「私」の姪である亜美にとって重要な時間だからだ。女子サッカーを続けるために選択した学校の中学受験を無事終えて、サッカーを続けることが決まった亜美。そんな彼女にも2020年3月という季節、つまり学校の一斉休校が降りかかってくる。この時間を使って「私」が提案した練習の日々を、少しあとになってから「私」が書き記すということ。こうした構成に、まず本作の重要な要素がつまっている。
構造的に解釈するならば、「私」は物語の結末も含めた行く末があらかじめ分かっているということが重要だろう。なぜならばこの小説自体が回想を多く含んだ構造になっており、リアルタイムに進行するわけではないからだ。だから記録されることには何らかの意図や意味がある(そして記録されなかったこともあるはずだ)と解釈すべきだろうし、「練習」という表現であえて真に受けること(=「本番」ではないということ)を避けていることにも意図がある、と解釈してよいかもしれない。
もっとも、思い付きで行為だからさほど重要な意味はなかった、という意味での「練習」だと解釈することもできる。しかしそうした練習の風景を記録する必要があったから記録した。それも、「小説を書く練習」という体裁でなら、気持ちの整理をつける前に表現することができたのではないか。「私」と亜美は、途中でみどりさんという大学生と出会うが、この第三者の存在がいることによって「私」と亜美の関係が客観的に記録されうるのだろうと思う。
「私」の視点だとみどりさんは少しそうした道具的な存在にも見えるが、亜美にとっては旅の途中で出会った年上の同性の友人だ。亜美がみどりさんから多くの影響を受けるように、みどりさんもまた亜美から影響を受ける。こうしたつかの間の、そして奇跡的なシスターフッド関係が生まれるのも旅という道すがらであるから、と解釈してよい。思えば『最高の任務』でも日記を通じて女性同士の関係性をあぶり出していた。
同じ時間、同じ空間、そして歴史を他者と共有することで、生きている者は誰もが人生という長い旅の途中であることを誰もが感じる。人生という旅の途中において、日々を生きることはそのまま練習なのかもしれない。いつか訪れる本番に向けた、長い長い練習。
土地の歴史に敏感になればなるほど、記録するとか歴史に残すといったことの価値が改めて浮かび上がってくる。残されたいくつもの記録があるからこそ、瀧井孝作や柳田國男や、旅の目的地でもある鹿島の英雄ジーコのありし日に思いを寄せることができる。歴史がある、そしてそれが誰かによって記録される。
歴史というスケールを省いたとしても、個人が記録に残すことが時間を超えて意味を持つものになるということは、「最高の任務」ですでに証明済みだ。こう考えることでようやく、「私」が何を意図して書くという行為を行っているのかが、本当の意味で理解できるようになるはずだ。
[2021.12.12]