ロシアによるウクライナ侵攻(ウクライナ戦争)以来、小泉悠はテレビ、新聞、ラジオ、インターネットなど各種メディアに出ずっぱりであるが、その彼が一般的な知名度を最初に獲得し、広く知られたのがサントリー学芸賞を受賞することとなった本作だろう。
早稲田の修士課程を出たあとは言わば在野の研究者であった小泉が、彼が得たいくつかのコネクションを利用して(その過程も本書で少し触れられている)2010年代中盤に発表したいくつかの論文が元となってできた一冊となっている。本書において完全に書き下ろした章もあれば元論文の形跡がわからないほど修正した文章もあるとのことだが、結果的にロシアの政治戦略を幅広い視点で概観できる良書に仕上がっている。
本書のあとにちくま新書から刊行された『現代ロシアの軍事戦略』はロシアの政治戦略の中でもかなり軍事的なポイントに絞った一冊だった。例えば民間軍事会社ワグネルの暗躍の実態や近年のロシアの軍事演習を経年レビューするなど、ロシアの軍事の今を詳しく知れる一冊であったが、逆に言えば小泉のロシアオタクぶりが遺憾なく発揮された一冊でもあり、内容が(いい意味で)濃すぎる一冊となっていた。
それに比べると本書は視野が広く、視点も様々で、読み物としてもよくできた一冊である。あとがきに詳しいが、本書には二人の著者、つまり家の中にこもりながら分析を深める著者と、北方領土など、実際にロシアの領土をフィールドワークする著者がタッグを組んで完成させたような一冊になっているのが魅力的だ。『現代ロシアの軍事戦略』はどうしても前者、軍事オタクの詳細な分析をまとめあげた一冊となっていたため、面白さと難解さが混在していたが、二人の著者が書き上げた本書は章ごとに扱うテーマやトピックが変わることもあり、読みやすくかつ面白い一冊となっていると言ってよい。
本書の構成について少し詳しく語りすぎたものの、こうした構成があるからこそ2022年の読者が改めて読むべき点が多い一冊でもある。例えば第2章の「『主権』と『勢力圏』――ロシアの秩序感」における指摘は示唆に富んでいる。例えば「主権」については、以下のような説明をしている。
ひとことで言えば、ロシアの考える「主権」とは、ごく一部の大国のみが保持しうるものだという考え方がその背景に指摘できよう。ロシア国際法思想の専門家であるメルクソーが指摘するように、ロシアの国際法理解における主権とは、すべての国家に適用される抽象的な概念ではなく、大国のそれを特に指すものであり、大国の周辺に存在する中小国の主権に対しては懐疑的な態度が見られる。オーストラリア外務省出身のロシア専門家として知られるローもまた、ロシアの言う主権とはごく少数の大国だけを対象とした極めて狭義のものであって、中小国は基本的に主権国家とはみなされないとしている。(p.58)
ロシアがこれまでクリミアやドンバス地方に対して行ってきた行為は(もちろんそれらの領土は本来ロシアのものだという理屈付けはあるにせよ)この「主権」の概念を利用することでよりクリアーに見えると感じた。2008年のジョージアへの侵攻についても、説得力があるように思う。さらにここに「勢力圏」の概念が加わることで、ロシアの戦略に対する解釈に深みが増す。小泉が言うには、これは「積極的勢力圏」と「消極的勢力圏」(影響圏)とに分けられる。
かつて多くの小国を内部に取り組んだソ連は、まさに様々な勢力圏概念を統治に利用していたのだろう。影響圏ですらない地域(バルト三国や東欧諸国)についても、NATOの東方拡大やアメリカの影響の強まりを牽制するために、消極的勢力圏に収めたい意思が見られる。ウクライナ侵攻が起きたあとのフィンランドやスウェーデンに対する牽制も、こうした勢力圏概念を利用した解釈が可能だろう。また、ヨーロッパの西側諸国に対してはガスなどのエネルギー供給のコントロールという見えない武器を使用することで、影響を及ぼそうともしている。
こうした概念を利用して2000年代以降のウクライナとの関係を整理した第4章「ロシアの『勢力圏』とウクライナ危機」はまさにいまこそ必読の章だろう。さらに、第7章「新たな地政的局面 北極」ではこれまでにはなかった視点をさらに付け加えてくれる興味深い章である。エネルギー資源として、また新たな航路としても利用可能性を持つ北極はまさにアリーナになりうるかもしれないし、核抑止のための重要なフィールドになる可能性も秘めているようだ。
世界情勢が大きく動いた2022年だが、ロシアの隣には別の大国である中国がいるし、日本や世界にとって難しい時代は今後も続いていくだろう。こうした時代だからこそ、本書が重要な一冊になるはずだ。
[2022.10.18]