2022年の夏の芥川賞は候補者全員が女性という回だったことで普段以上にメディアが盛り上げた回だったが、その中で候補に挙がった一人が鈴木涼美だった。大学時代から同人誌で長く書き続け、受賞に至った高瀬隼子をのぞくと、最も物書きとしてのキャリアを持っていたのは鈴木涼美だろう。
修士論文を基に出版した『AV女優の社会学』が話題を呼び、ウェブや雑誌などで意欲的にエッセイを書き続ける傍ら日経新聞記者としても勤務していた彼女は、元AV女優という出自を明かすことで自分の仕事に繋げるしたたかさを持っている書き手だと認識している(もっとも、経歴や現在の仕事に対して肩の力が入っているタイプではないと思うが)。
鈴木の書いた小説を読むのがこれが初めてだが、さっき書いたようなことが頭にあったので読み始めは単純に、鈴木涼美が小説を書くとなるとこういうフィールドのこういう展開の話になるんだなという素朴な感想を持つ程度だった。ただ、後半の展開は上手く作っていたと思う。芥川賞候補になったことと、同時に受賞できなかったことも両方理解できる。複数の女と女を巡る話として読めば、現代的で力のある小説なのは間違いない。
不在の父の存在を感じさせる生々しい記憶、病によって衰えていく母。物語の後半になって、こうしたあえて文学的なモチーフを持ち込むことを鈴木は選択したのだろうと思った。ホストと水商売とセックスワーカーがあふれる街(近くにゲイタウンがあることが言及されているため、おそらく新宿歌舞伎町)で生きて来たエリは、孤高とも言えるし孤独とも言える存在だ。仕事で知り合った人間が街には多くいるが、エリの人生に決定的な影響を与えることはない。たった一人、エリという女が亡くなったことについてユリは少し饒舌になる。
名前が一文字違いの女の記憶をたどるユリの中にある感情は、身体と感情の両方を消耗するがゆえに移り変わりの激しい街を生きた戦友としてだったか、あるいは明示されてはいないが友情以上の感情を持った(あまりにも弱くて壊れやすい)女同士の絆をエリとの間に築いていたのか。人間関係の淡泊さを、どちらかというとそのメリットを享受してきたユリにとってのエリがどういう存在だったのかは最後まで不確かだが、不確かであるがゆえに依存的にならない弱いつながりを得ていたのかもしれない。弱くても、重要なつながりを。
「ありがとう。 ねえ。私のこと、そんなに嫌じゃなかったんでしょう」
私は語尾を上げずに質問調のことを口にしていた。幼い頃から、母は私を時々無視した。 ただ置き去りにされたり、どこかに閉じ込められたことはない。母の書く詩を、私は好きではなかった。 狭い部屋に女二人で、一人は子供で、どうしたってランドセルやプリントなどが乱雑に散らかっていく。そういう生々しい散かりや生活感を無視した詩を、私は美しいとは思わなかった。(p.108)
あえてこの文章では父や母との関係について触れなかった。あえて文学的に挿入した(と思われる)親子関係に対する葛藤よりも、先に逝ってしまった一つ年上の女に対する追憶の方が、ユリにとって大きな意味を持っているような気がしたからだ。
エリを喪い、そして母をも喪ってゆく。上記の引用は臨終が近づいた母との会話の中の一節だが、人生の儚さを知っているからユリだからこそ母が逝く前の間際の短いやりとりが、尊いものに思えた。生きている間に記憶していれば、喪った後でも思い返すことができるから。
[2023.3.20]