今年から読んでいる中井久夫集だが、第1巻が1960年代から80年代前半までと広い射程だったのに対し、2巻目にあたる本書は1980年代中盤に絞られている。
1巻で話題になった急速な近代化がやや落ち着いたものの、子どもによる暴力や学校崩壊が社会問題になっていた時代でもある。「精神科医から見た子どもの問題」や「親の成熟と子どもの自立」はいずれも子どもの成長をどのように見守り、促進すればよいのかといったテーマについて書かれている。親というワードはあるものの、当然親だけの問題とは思っていない。むしろ家庭という場所での限界を指摘する中井の視点は、現代にも通じるものだろう。
密接な人間関係はすべての人間関係の代表ではない。たとえば、食うか食われるかの関係になりやすい(嫁姑問題など)。ある距離をおいた人間関係にはそれ自身の価値があり、安らぎと遊び(創造性)がある。家族の中だけで育った子どもには味わえないものだ。そういう子は重力の強すぎる星でそだった人のようなものである。
(「精神科医から見た子どもの問題」、p.258)
家族の形は変わり続けているが、家族が解体されるわけではないし、少子化ゆえにむしろ家族生活の中で子どもが中心的に処遇される「子ども中心主義」が強化されている印象もぬぐえない(額賀・藤田 2022)。その危うさは教育虐待のような形だと分かりやすいが、そうでなくとも成熟を妨げる可能性があることを中井は危惧していたのだなと感じるエッセイだった。
順番が前後するが、2巻の前半部には神戸に関する長短入り混じったエッセイが多数収録されているのも良い。宝塚や伊丹で育ち、芦屋の学校に通った中井にとって純粋な神戸は1980年の神戸大学への赴任が初めてなのだと語る。京都と名古屋という土地を経て兵庫に戻り、神戸に来た中井。それから亡くなる2022年までを過ごす土地を最初に見た感慨が残されている貴重な文章群とも言える。
神戸の精神医療の特色について語る「神戸の精神医療の初体験」も面白いが、特に神戸の風景について語るエッセイが良い。
私が驚いたのは、まず「よいところにこられた」 「こんな住みやすい町はないですよ」 「気楽なところですよ」 という挨拶であった。ほかの町では自分の町のことをよそから赴任してきた人にどういうだろうか。名古屋なら伊吹おろしの寒さをいい、「巨大な田舎」 「文化なき街」と自嘲するだろう。(中略)ところが、神戸の人はちがう。以前、司馬遼太郎氏が、神戸の人が神戸を擁護するのは維新の志士並みのひたむきさだといっておられたのを読んだ。(「神戸の精神医療の初体験」、p.46)
恐る恐る神戸の町で生活を始めた。最初の印象は「この町の額縁の良さ」である。山も青く海も青く空も青く、青のあらゆる色調につつまれて何でも美しく見える。額縁にいれると絵がさまになるのと同じである。あたかも初夏の赴任だった。(「神戸の額縁」、p.80)
本書には「つながりの精神医療――対人相互作用のさまざま」、そして 「 『伝える』ことと『伝わる』こと」といったのちに筑摩書房が中井久夫コレクションとしてまとめたエッセイも収録されている時期である。中井久夫が中井久夫になり始めたというべきか、神戸への赴任と並行して物書きとしての魅力が発揮されていく時期なのだなと、そう振り返ることもできるようだ。
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[2025.2.18]