うつ病は比較的身近な精神疾患だろう。例えば統合失調症や解離性同一性障害といった一般の人にはやや縁遠い精神疾患とは違い、鬱という言葉を日常的にも口にするほどには概念としても身近である。ただ、自分自身も含めてこの疾患を正確に理解しているとはいいがたいし、著者である加藤忠史も似たような問題意識を持って本書の執筆に当たったようだ。
本書を執筆するにあたっては以下に引用するようにその苦労は随所に見えるが、しかしながらこれだけのガイドラインを一般向けに示すことができたのは大きな意義があると思う。
うつ病について述べようとすると、総花的に何もかもを述べるか、特定の視点からの意見を述べるか、どちらかになってしまい、どちらに偏り過ぎても、十分に役に立つとは言えなくなってしまうのが難しいところなのです。
そんなわけで、なるべく必要最小限の情報にとどめて、シンプルな記載を目指し、同時に、うつ病の全体像をカバーするという、相反する二つのことを目指しました。すなわち、うつ病について、当たり前のことが普通に描いてあるという本にしようと思いました。(中略)
この本が、うつ病で困っている方、家族や周囲の方がうつ病になって困っている方などをはじめとして、すべての方々のお役に立つことを願っています。(pp.11–12)
加藤忠史の専門の一つである双極性障害について書かれた新書を以前読んでいたため本書を今回手に取ったが、本書でも丁寧な議論が進行してゆく。うつ病について断定的に書くことはなるべく回避し、病気の診断や鑑別、治療の方針など、様々な場面において分かっていること/分かっていないことが具体的に分かりやすく説明されている。
例えば「治療に用いる薬」の章では40ページほどを費やして向精神薬の話をしている。ここでは抗精神薬、抗精神病薬、気分安定薬、抗不安薬、睡眠薬といった形にさらに細かいカテゴリーを提示して話を進めているが、薬剤に関する知識のない人(多くの人はそうだろう)にとって、一つ一つの薬の効果や注意点を説明してくれるのは分かりやすい。どのカテゴリーの薬なら何種類までの常用が基本なのか、また睡眠薬についてはそれぞれどのような作用があるのかといった風に、カテゴリーとその中身を具体的に説明することによって似た薬がどの程度あり、それぞれどのような効果や副作用の差異を持っているのかも丁寧に説明しているのは実用的である。
加藤のこの本が面白いのは治療の方針を具体的に示すだけではなく、「ガイドラインの理想と現実」といった形で、現実的な治療の臨み方についても章を割かれていることだ。ここでは精神科の受診に当たって現実の医療制度との相克が短いながらまとめられている。日本の病院が置かれている現状はどのようなものであり、その状況下で望ましい診療はどのようなものがありうるのか。
こういった観点も事前に知っておいたほうが、実際に受診するにあたって(これは精神科に関わらずでもあるが)意義があるだろう。それはすなわち、医師との考え方の差異からくる診療そのものへの不満を減らすことにもつながるかもしれない。患者の望むことと医師が実際に提供する診療にはおのずと差異が生まれるが、かといってそれをすべて否定しなくてもよい(もちろん場合によっては違和感を主張してもよい)はずである。
「心理・社会的治療法」の章では薬物療法以外にどういった治療法が実践されており、どういった治療法にエビデンスがあるのかを概観している。精神科医による治療と心理士などによるカウンセリングはどのように違い、カウンセリングにはどのような効果や限界があるのかも短いながら説得力のある説明がされている。こちらも併せて読んでおくことで実際の治療に向けて前向きになれることが多いだろう。最後に「良い主治医の見つけ方」という章が割かれているのも、患者や関係者にとっては実用的で重要な著者の心配りである。
2014年刊行の本書は2013年に改訂されたDSM-5の診断基準を反映した本であり、今から振り返ると7年前の本ではあるもののそこまで古びている印象はない。そのDSMについても、なぜ精神疾患の治療にあたって診断基準は必要なのか、診断基準があることによってどのようなことが起きるのか、またその限界についてどのように考えればよいのかといった素朴な疑問にも丁寧に答えている。
身近な精神疾患であることから著名人のうつ病や適応障害といった形でメンタルヘルスに関する話題を耳にする機会は多い。いま一度手元に置いておく一冊としては優れたものであると思われる。
[2021.6.8]