クミコと加納クレタと笠原メイのために ――村上春樹(1994/1995)『ねじまき鳥クロニクル』新潮社

バーニング
6 min readMar 4, 2017

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ねじまき鳥からアンダーグラウンド、そして「壁と卵」へ

2月に刊行された『騎士団長殺し』が出版界の話題をさらっている村上春樹だが、まだ90年代以降の長編をちゃんと読めてないのでまずはねじまき鳥から手をつけることにした。『騎士団長』も同じパターンのようだが、「ねじまき鳥クロニクル」という一見ファンタジー世界かな?と思わせるタイトルは村上春樹なりの一種のメタファーであって、僕こと岡田亨と女たちの物語であるといういつものフォーマットはねじまき鳥でも同様だ。まぎれもなく村上春樹の現代劇に仕上がっている。

80年代から90年代への変化なのかどうかは詳しくはわからないが、主人公が現在でいうアラサーほどの年齢であり、子どもはいないがクミコという妻がいて、すでに家庭を持っているというのは印象的な変化だ。つまりここでは一見クミコ以外との恋愛や性愛の余地はない、かのように見える。

たとえば女子高生の笠原メイとは重要な会話を僕と交わすし、第3部に入ってからは笠原メイから僕に贈られる手紙がストーリーにおいて重要な意味を持つ。けれども、ある意味常識的な範囲として、まだ10代のメイと僕が交わることはない。(ちなみに『ダンス・ダンス・ダンス』では高級娼婦のメイが登場するが直接的な関係はないだろう。キャラクターがやや似ている、というくらいか)

それでも女たちはいたるところから岡田の前に現れる。唐突に電話をかけてくる謎の女や、ある日僕のもとを訪れる加納マルタとクレタの姉妹。そして3巻に入ってから存在感が大きくなる赤坂ナツメグとシナモン母子(シナモンは男性)。なぜならば僕とクミコの関係は冷えているからだ。冷えきっている、とまでは言わないまでも、クミコの兄で、著名な経済学者である綿谷昇の存在が僕とクミコの関係に危機を与える。

この小説ではおそらく初めて戦争という大きなモチーフが出てくる。第2部までが刊行されたのが1994年、第3部が刊行されたのは95年8月なので、村上春樹にとってはこの間に阪神大震災と地下鉄サリン事件という二つの大きな事象を経験するが、その前にねじまき鳥で過去の大戦を扱った経緯も踏まえて、のちの『アンダーグラウンド』の問題意識につながるのかもしれない。

当然、それは2009年のエルサレムスピーチにおける壁と卵の比喩、つまり大きなもの(たいていの場合暴力、あるいは暴力装置)と小さなものとの間の不可分で不平等な関係性を書こうとするわけだが、源流がすでに90年代前半にあったことをいまなら確認することができるのだな、と感じた。

男女の関係とセックスのメタファー

複数巻にわたる長い長編の場合複数のテーマを並行して扱うようにしているが、印象的なのはやはり男女の関係であり、セックスのメタファーだろう。綿谷昇に「汚された」経験のあるクレタはかつて娼婦をしており、その時の経験がいまだ自分を汚れた者として扱うようになる。そのクレタを解放するのは、夢の中での僕とのセックスだ。というわけで、僕はクレタと実際に交わるわけではないのに、あたかも実際に交わったような快楽と安心をクレタに与え、それはやがてクレタを救済するし、3部では彼女にコルシカという子を授けることになる。たとえば『ノルウェイの森』では現実的なマスターベーションやセックスが男女二人の関係性をプラスの意味でもマイナスの意味でも形作ってきたことを考えると、対照的な変化が見える。

クレタは元々1990年に刊行された『TVピープル』所収の短編「加納クレタ」の主人公であり、本作で再登場したことになるが、短編の時から彼女は「女性の運命から逃れることはできない」し、「女性であることの呪い」が彼女に襲う。(いずれの引用も長瀬海編(2016)『シンフォニカ』vol.2におけるGitte Marianne Hansen「村上春樹における女の語り」より)

このようにクレタをとらえるならば、彼女にとって男は敵そのものである。それでも姉マルタを通じて僕と出会い、夢の中で交わることで回復していくのだ。マルタが二人の媒介をなっているから、ととらえることもできるが、先ほど引いた論文でハンセンが言う、ごくありふれた日本人女性の立場をそのまま肯定したくない、という態度の表れだろう。これは春樹自身の表明かもしれないし、自分よりクミコのほうが収入があるという僕の立場なのかもしれない。要は、男の前に支配される存在ではなく、対等かそれ以上の関係として男と向き合うことで、ひとりの女性であるという以前にひとりの人間としての人生が開けてくる、というリベラルで希望的な立場だ。

暴力と祈り

失踪したクミコと、彼女に遠くから襲いかかる綿谷昇の関係にしてもそうだ。僕はなんとかして綿谷を退治したいと思う。しかしその方法はなんらかの形で暴力に頼るしかない。しかし直接手を下すということは、明らかに自分が悪になることを引き受けることだ。ではどうするのか。第3部で僕がとった行動は井戸を手にいれること、井戸のある土地を自分のものにすることだ。別の世界につながっている井戸を通じて、綿谷を退治することができないか。その上でクミコを救い出すことができないか。

終盤、綿谷が暴漢にバットで殴られ、病院に搬送されるというニュースが流れる。なぜバットでなぐられたのかが重要ではない。そのバットは、僕のバットであったことが重要だ。僕の所有していたバットがいつのまにか暴漢の手にわたり、綿谷を殴打した。僕は間接的な形で綿谷を退治するという暴力に関与してしまったことになる。そして入院中の綿谷のベッドサイドで彼を見守りながら彼の命を奪おうと企図する。岡田夫婦は別々の方法で綿谷を滅ぼすことになるのだ。

当然暴力にたいする罰はある。間接的でしかない僕は罰を免れるが、クミコは司法によって罰を受けることになる。ひとりになった僕が最後に思うのは、笠原メイに対する祈り。

さようなら、笠原メイ。僕は君が何かにしっかりと守られることを祈っている。(第3部 新潮文庫1997、p.509)

まだ10代であるメイに対しての祈りは、この国の社会の未来に対する祈りだろう。立場の弱い存在のまま置かれる女性たちの未来を。この小説は1984年から86年にかけてが舞台となっているようだが、その間の1985年はもちろん男女雇用機会均等法の制定された年だ。2017年になっても実態がどれだけ均等になっているかというとかなりあやしいというしかないが、物語を通じて祈りを届ける村上春樹の文章は日本だけでなく世界の読者に届く。春樹の祈りは、時間をかけて有効な方法になりうるのかもしれない。クレタとクミコと、そしてメイのために。

[2017/3/5]

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Written by バーニング

90年生まれ。アイコンは@koyomi_matsubaさんデザイン。連絡先:burningsan@gmail.com

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