瀬名秀明を読むのはかなり久しぶりになるが、少し遡って『新生』や『希望』連なるような短編集だと受け止めた。2000年代に長い長編をいくつか送り出しはしたものの、その後の瀬名の魅力は先程挙げた短編集や本書のような、テクノロジーの技術的発展を時代がどのように受け止めるか、そして時代を生きる人間たちがどのようにそのテクノロジーに向き合うかを考えてきた作家だと感じる。
そもそもは細胞への着目から始まった有名なデビュー作を経て『BRAIN VALLEY』では脳へ着目、さらに『デカルトの密室』や『第九の日』ではロボットと、次第に工学へと関心をスライドさせてきているのはわかる。元々薬学を専攻していた瀬名関心の根本は化学寄りなのだろうと思っていたが、広くサイエンスと人間の関係について関心があることは先程挙げた2000年代後半から2010年代に至る小説を見ているとわかる。また、いくつかの小説で3.11への言及があるのも、サイエンスと人間の関係を考える上での重要な出来事だったのだろうと思われる。
その意味で、いわゆる将棋AIを正面から扱った「負ける」を読むのは非常にわくわくした。まず宮内悠介以外にも将棋に関心のあるSF作家がいたのだなという発見があるのだが、その上で将棋AIの強さや危うさではなく、将棋AIの「人間らしさ」に着目するのはいかにもSF作家らしいなと思ったのだ。
現実にも将棋AIが人間の棋士を負かす時代になっており、将棋アームが将棋を指す姿も目にするようになっているが、将棋AIを題材にSFを書くとはどういうことなのか。瀬名がこの小説で試みたことは、次のやりとりが具体的に教えてくれている。
「それできみは、人工知能が負けることの意味を見つけたのか?」
「表面的には単純な話で、人工知能に”人間らしさ”という薄い膜を一枚被せればそれでいい。上の人たちもみんなそう思っているだろう。それで少なくとも来年の対局は乗り切れる。だがそれが本当に意味のあることだとは思えない」
続く「144C」と「きみに読む物語」はいずれも小説を扱った小説、という意味でメタフィクション的な短編だ。前者は小説を書くAIが実在する中で人間らしい小説とは何か、あるいは小説における人間らしさとは何かを対話篇形式で問答する。後者は逆に、小説を読む人間の感情の動きに焦点を当てて、神経科学的にそのメカニズムを解明し、スコア化を試みる研究者とそのスコアが広がった社会の話である。
いずれの短編もやはり、人にとって小説とは何か、あるいは小説における人らしさを繰り返し問う形式の物語である。物語をベースにしているメリットは、安易な結論を出さなくても良いことだろう。論文のように暫定的な結論やインプリケーションの提示を論理的に行う必要はなく、むしろいずれもロジカルな問いを立てながらエモーショナルな部分(普遍的で客観的ではなく、個別的で、主観的な部分)に働きかけを試みているのが何よりの魅力だと思う。そしてその問いかけは表題作の「ポロック生命体」へと続いてゆく。
あなたは当事者になることから逃げただけじゃないか。その言葉が喉まで出かかって、だが水戸は呑み込んだ。誰より当事者であったのはこの作家なのだとわかったからだ。この人が未来をつくろうと願っておこなった作家活動が、確かに何人かの心を動かして、そして結果的にひとりの人間が死に至った。作家は未来をつくることで人を殺せる。
科学者も同じではないだろうか。
ならば事実を求めて伝えるだけではだめなのだ。(瀬名2022:274)
表題作がもっともこの小説らしいミステリーの構造も持った仕上がりになっているが、その中でも印象的な箇所がここだ。これまでの短編がポジティブな可能性の探求であったように見える(「きみに読む物語」については両面が描かれている)最後に改めてネガティブな可能性も提示しておこう、というのも瀬名らしさ、つまりロマンを追求しながらもリスクにも視野を入れる科学者らしい態度だと言える。
ジャクソン・ポロックの作品を初めて生で見たのが2012年の冬の東京だったことは、今でもよく覚えている。ポロックが亡くなって久しいが、彼の創造性がこのような形で昇華するのは(もちろん作家のアイデアというレベルではあるが)非常に面白い試みだと思った。また改めて、テクノロジーと向き合う上での葛藤や逡巡といった感情の動きは物語の創作に向いてるんだなということも感じることのできる、すぐれた一冊だった。
[2023.9.4]