今まで読んだことはなかったものの、凪良ゆうと言えば商業BL小説の世界では相当名の知れた作家だ。その彼女が5年ほど前から一般文芸に進出している。これはかつて木原音瀬が歩いて来た道であり、ここ数年は一穂ミチが進んでいる道でもある。
一般かBLかの違いは、大きいようで実は小さいなというのは一穂ミチを長く読んでいて感じていた。つまり人間を描く力があり、その人間に沿ったストーリーを作れるのであれば、男性カップルを主軸に置くかどうかの違いでしかないのではないかというのが自分の感覚だ(もちろん異論は認める)。
その凪良ゆうの本作は、本屋大賞を受賞し、例によって映画化もされるほどにはベストセラーになった。売れすぎた本を読むことに少し癪な気持ちはあったものの、それは小説を読み始めると簡単に霧散したし、読み終えて感じたのは純粋に読めてよかったという感覚と、人間の描写が上手すぎるのではないか、という感覚だ。
本作の主人公は二人いるが、基本的には年下の女性サイドである家内更紗の視点で進められる。彼女がまだ少女だったころに家出に近い行為をして、公園で出会った男子大学生、佐伯文。両親を失い、預けられた伯父と伯母の家に馴染めず、従兄には性暴力を受ける日々を過ごしていた更紗を、文は精神的に救済する。大学生による少女の救済は、客観的には誘拐である。でもサンクチュアリとも呼べる文と過ごす生活の空間に、更紗は満たされていた。文がいなくなった15年後、34歳になった文と24歳になった更紗は、再会を果たす。
あらすじと言ったあらすじはこれだけで、再会した二人は当然のように距離を縮めていく。その距離の縮めかたの不器用さはご愛敬といってもいいかもしれないが、更紗にとって大人びていた文はその頃の空気感を34歳になっても宿しており、自分だけが大人になってしまった感覚(15歳分の年を重ねたことに対する違和感)が丁寧に描かれている。
これは後々の伏線にもなるのだが、再会を果たすことで過去に負ったいくつかのトラウマ、つまり両親に捨てられたこと、従兄から性暴力を受けたこと、そして文と別れて自分が「幼女誘拐事件」の被害者というラベリングをされてしまったことなどを、少しずつ修復していく過程として描かれているのが何よりもよかった。
宮地尚子の『トラウマ』によると、トラウマとは「誰かわかってくれる人がいて、きちんとサポートを得られ、心身の余裕が与えられれば、時間はかかるものの、少しずつ癒えてい」くものであり、「とまどいながらそばによりそい続けることには、計りしれない価値がある」(いずれも同書の「はじめに」より引用)のだと言う。
また、臨床心理士である東畑開人のベストセラーに『「居る」のはつらいよ』という本がある。本書で繰り返し(筆者の経験を通して)書かれているのは第三者が特別な行為をすることが必ずしも重要ではないし、むしろ帰ってネガティブな結果をもたらす可能性もあることだ。相手本位になるということは、「なにもしない」ことを含むだろうし、「ただそばにいる」ことでよいかもしれない。少なくとも文は更紗にとって安心を与えられる存在であり、唯一過去の秘密を共有できる相手だという価値を持った存在なのだ。
24歳になった更紗が同居している亮は、こうしたトラウマを癒すための条件をまったく満たさないDV彼氏として描かれていることが、凪良ゆうという作家の容赦のなさだなと感じた。文と亮はほとんど対局にある存在で、亮はとにかく更紗を精神的に支配させて自分に従属させようとする。心から優しい文と、時々(相手本意ではなく自分本意の)優しさを見せる亮とでは、優しさとはこれほどに違うものなのかと思わされる。
更紗がバイトをしているファミレスにも店長から同僚までいろいろなキャラクターが登場するが、それぞれに一筋縄ではいかないような多面性を持ったキャラとして描かれているのがいい。この人は優しい、この人は少し危険、といった先入観では、人間を理解することはできない。例えばこの人は優しいし、努力はしているはずだが、本当に自分のことを理解するには達していない、といったような形で店長が描かれているのがとりわけ抜群だと感じた。
惜しいなと感じたのは、文が大人になってから出会ったというパートナー女性の谷というキャラクターの影が薄いことだった。物語の中盤ごろから登場し、終盤には非常に重要な役割を果たすものの、ほとんど役割を果たすためだけの存在として描かれており、彼女にはキャラクターの立体感がなかった。与えられた役割をこなすことに忠実なキャラクターにしか見えなかったのである。
とはいえそれが大きな減点にならないのは、この小説が文と更紗が共同して構築する新しい親密圏の構想を示しているからだ。かつて手に入れていた親密圏を、時間が経ってから再生、再構築する試みはもちろん容易ではない。客観的には、犯罪加害者と犯罪被害者がパートナーとなり、親密圏を構築するのは筋が通りづらい行為である。しかしそれはあくまで、客観的に見たときであり、唯一秘密を共有できる二人にとっては、二人だけの国(スピッツのロビンソンの歌詞のような)が必要なのだということだ。
普通の生き方をしていては、客観的な偏見にさらされ続けるしかない。そうであるならば、普通の生き方を捨てるだけだ、もちろん、そういった選択をせざるをえないほど、偏見や差別はやっかいなものであるということでもある。そんな中選択した二人の生き方にかすかな希望を感じるし、難しい物語をここしかない形で着地させた凪良の手腕はさすがだ。
[2022.9.27]