人民、代表、ラディカル・デモクラシー ――エルネスト・ラクラウ(2018)『ポピュリズムの理性』(訳)澤里岳史/河村一郎、明石書店
ラクラウがその学者人生の終盤に書き上げた本作が、原著の刊行から10年以上経過して翻訳される運びとなった。修士のころ、どういう経緯だったか忘れたけどネットで落ちていた原著の一部を読んでいたことを思い出したりして、個人的には原題である’’On Populist Reason’’の方がしっくりくる。
まあそれはさておき、2005年に観光された本作が意外にも2010年代終盤の現代に違和感なく、むしろフィットしているとさえ思えてしまうのがいささか不思議だ。それは端的に、日本のみならず世界中で(代議制)民主主義が抱えている課題が噴出していることもあるだろうし、その課題を抱えた民主主義を批判するためのワードとして「ポピュリズム」が用いられたり、大衆迎合的な政治家に対して「ポピュリスト」という言葉が用いられたりする。
もっとも、そうした言葉の使われ方と政治、政治家の実態をまとめた本としては水島治郎の書いた『ポピュリズムとは何か』がある。ただ、「ポピュリズム」という概念が政治理論、政治思想の枠組みで深堀りされているかというと、まだまだ途上だろう。その意味では、理論的、思想的枠組みから改めてポピュリズムという「現象」を観察するのは、有意義なことのように思う。
私のかつての専攻は政治学であるが、政治思想、政治理論を専門としたわけではないので、ラクラウの理論を紹介すること自体に限界がある。その代わり、ポイントを絞って個人的に本作で面白いと感じた箇所について記していこう。
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とりわけ興味を持ったのは6章「ポピュリズム、代表、民主主義」の部分だった。この章は20ページほどの分量しかないが、章の中に「民主主義」と名打ってある唯一の章だ。ここでラクラウは、自由主義と民主主義の関連について議論する。クロード・ルフォールが「暗黙裡に民主主義を自由民主主義(リベラル・デモクラシー)と同一視」する一方で、シャンタル・ムフが「双方の伝統の間に単なる偶発的な接合しか見ない」という議論の両方を紹介する(いずれもp.226から引用)
もちろんラクラウはムフの立場をとるが、個人的にはルフォールの視点を引き合いに出すことにも意義があると思う。なぜならアメリカやEUを筆頭に、多くの先進民主主義諸国は自由主義を重要な価値に据えているからだ。だから多くの場合、民主主義≒自由民主主義と解釈するのは自然なことだし、トランプの保護貿易政策が中国からも非難に合うような現代国際政治は、自由主義的な潮流がはっきりと表れている。
もっとも、民主主義の国ではない中国においても自由主義的な主張が出てくるくらいには、やはりムフの言うように「偶発的な接合」ととらえたほうがいいのかもしれないとも考えられる。こうした議論に上乗せするように、「空虚なシニフィアン」としてポピュリズムを、「人民」の構築の必要性としての民主主義を持ち出すのは、民主主義もポピュリズムも下からの運動という側面を強調したいからだろう。このあたりはわかりやすく、ポストマルキストの論客らしいなと感じる。
そしてその上でラクラウが「人民アイデンティティの構成におけるこの多様性」に目を向けようとするのは非常に現代的な側面であるだろう。「空虚なシニフィアンによって接合される等価的な諸要求の総体」が「人民」であるということは、ポピュリズムはむしろ民主主義にとって非難されるべきであるというよりは、かなり重要な一要素として位置づけられる(いずれもp.229から引用)
社会科学の言説の内で「降格」させられてしまったポピュリズムという概念を救い出す(p.41)という野心的な試みは、気づけば単位救い出すだけではなく、第7章「ポピュリズムのサーガ」で試みているように、近現代の政治史の中に明確に位置づけられるものであり、先ほど述べたような形で現代的に意義があるものとして提示してみせた。ムフのいう「左派ポピュリズム」はこうした新しい概念分析の一つの功績だろう。ラクラウの野心は、彼の死後もなお意義を残す。
[2019.7.28]