郝景芳の名前はケン・リュウが編集を務めた『折りたたみ北京』の表題作で知った作家。今回のタイトル通り彼女は1984年に生まれ、大学と大学院の修士課程では物理学を専攻し、その後経済学に専門を変えて博士号を取得というなかなかのエリートである。その彼女の書く本作の登場人物たちもエリートが多いのでは、と思っていたら半分は当たっていて半分は外れていた。外れたのは、本書の中で彼女は自分たちの世代と並行させて自分たちの親の世代の物語を走らせるという二重の構成になっている点だ。
1984年に生まれた私こと軽雲は経済的に開放的な政策が進展していく中国の現代社会を生きている存在。彼女の生きていく時代は、中国がポスト冷戦体制、あるいはポストモダニズムと言ってもいいような政治的、経済的転換を迎える社会であり、今もそれは進展していっていると言えるだろう。
現代の中国において、国内ではアリババやテンセントのようなビッグテックが幅を利かし、同時にそうしたテクノロジーの先端は中国的な管理主義的国家との相性の良さも示している。そうした社会に息苦しさを覚えたり、あるいは純粋なキャリアアップのためにアメリカやヨーロッパなどの海外を目指すのもこの時代の若者の、とりわけ高学歴志向の彼ら彼女らの特徴だと言えるだろう。(郝景芳自身が経済学で博士号を取得しているほどには高学歴な作家なだけに)
翻って父である沈智は文革の時代の余韻の中で生きてきた。そして、経済発展に伴って広がっていく地方と都市の格差の中で生きていた存在だとも言える。事業の失敗はそのまま家族に大きなダメージをもたらす。沈智は中国を去り、ヨーロッパを転々とせざるをえない。それは自分探しを兼ねてややモラトリアム的にヨーロッパを目指した娘、軽雲の動機とは一致しない。
ここまで書いて来てはっきりと分かるのは、自身も1984年に生まれた郝景芳が軽雲と沈智のそれぞれ異なった人生の交わりを書くことで、言わばフィクションという器を借りて彼女が何かを表現しよう、強いメッセージをこめようとしていることだ。言論の自由に一定の制約がある中国では、フィクションの形を借りて抽象的、婉曲的にメッセージを伝えるのが一つの賢いやり方なのかもしれないし、日本に紹介された「折りたたみ北京」がそうであるように郝景芳にはその才能と、社会を構想する能力がある。
もっとも本書の場合、SF的な新しい社会や未来の構想というよりは、そのもっと手前の歴史、つまり先ほど述べたようなポスト冷戦期の中国の現代社会を、等身大の個人の視点で俯瞰することから始める必要があった。そうすることで、2020年代の現代に通じる個人の不安や、それを超越するような統治の構想を思い描くことができる。
父の世代のように、個人や家族の幸せを願い、そのために生きることが果たして社会のためになっているか。そもそもどのような人生が望ましいのかは常に流動的で、確固たるビジョンがあるわけではない。こうしたポストモダン的不安は、政治学的な統治の構想から、次第に社会を客観的に描写する指標である統計への誘惑へと移っていく軽雲の意識の中にも垣間見えるように思えた。もっとも、社会統計も統治の材料として有用なものであるから、意識が全く変わったとは思わない。軽雲は学生時代から社会人になっても、継続して政治的なものへの関心が続いていることが読み取れる。
そうした政治的なものへの強い関心と個人として生きる上での不安が、まさかああいう形でエンディングになっていくとはと思ったけれど、同じく高学歴なエリート層の不安や生き方を様々な形で描写する現代の韓国文学とは対極にあるものを描いているがゆえの結末にも思えた。韓国文学を読むにあたって重要なのは、政治や社会に対する抵抗や反抗である。声を上げ、連帯すること。それは男尊女卑や家父長制、あるいは歴代の大統領やその周辺に見られるように腐敗した政治が色濃く残る現代の韓国社会において、3放とも5放とも呼ばれる若い世代が生きていくために必要になる要素だ。
しかし現代の中国において抵抗や反抗のために連帯することは、そのまま中国共産党による統治に盾突くことになる。もちろん自由民主主義国家においてそういった社会運動は非常に重要な要素ではあるのだが、中国共産党に自由民主主義的価値観で抵抗することの困難さは、最近の香港情勢を見るまでもなく明らかである。こうしたある種の残酷な現実に、本書は直面することはない。ゆえに不安な個人は不安な個人のまま、変動していく社会の中で生きざるを得ないのかもしれない。
そうした生き方は市民による抵抗を否定し、自由な思考を制限し、ビッグブラザーによる中央集権的な権威主義的管理社会を志向した、ジョージ・オーウェルのビジョンと近似する。だから、最後まで実存的不安が消えることのなかった軽雲がたどり着くべきしてたどり着いてしまった結末が、驚くようなエンディングの形なのだと解釈した。そして改めて、郝景芳の小説家としての凄みを思い知る読書体験であった。
[2021.2.3]