なあ、母ちゃん。先日は、すまなかった。だが、あなたが「女らしくない」と評したボディ・ビルは、実は、そうじゃないのだよ。この競技は世間と同等か、それ以上に、ジェンダーを意識させる場なのだ。 「女らしさ」の追求を、ここまで要求される場を、私は他に知らない。人はボディ・ビルを「裸一貫で戦う」 競技と見做し、その潔さを称える。ところが、そんな称賛に、私は鼻白んでしまうのだ。
私が化粧をしないのは、偏に羞恥心が疼くからだった。会社の採用面接にも、私はすっぴんで臨む。私はすっぴんでいることより、化粧をしていることのほうが百倍は恥ずかしかった。化粧をしているということは、私が毎朝化粧をする時間を設け、鏡に向かい、あるものをないように処理したり、ないものをあるように処理したりしていることを意味する。さらに言えば、ドラッグストアで化粧品を購入したり、寝る前に化粧を落とす時間を設けていることも意味する。化粧を施した顔面は、そういうことを世間に物語るのだ。私には、それが異様に恥ずかしい。 (p.110)
本書の面白いところは、序盤は20代の一般女性の筋トレ小説かなと思いきや途中からストーリーの軸がどんどん変わっていくことだろう。本書は昴文学賞佳作をとったあとに芥川賞候補にもなった中編だが、筋トレ小説で芥川賞をとった小説に羽田圭介の『スクラップ・アンド・ビルド』が挙げられる。
比較的最近の受賞であるため、もしかしたらテーマがやや被ってしまったことが一つのアンラッキーかもしれないが、とはいえ筋トレはこの小説の入り口なのである。羽田圭介の書いた筋トレ小説が個人的なナルシシズムであったのに比べると、本書は途中から「見る、見せる、見られる」といった実存のレベルへと小説の軸が変化していくところに面白味がある。
29歳、会社員の女性U野は、あるジムに通う中で通称「スミス」と呼ばれている筋トレマシンに愛着を持つ。しかし通っているジムでスミスを使うためには順番待ちする必要があり、小さなストレスを溜めていた。そんなU野を呼び止め、自分自身が新たにオープンするジムへと勧誘するO島。48歳の彼女はボディビルダーであり、複数のジムを経営する経営者であるが、O島の誘いに乗ってたどり着いたジムにはスミスがあった、それも複数・・・
O島はジム加入の条件として、ボディビルコンテストへの出場をU野に要請する。新しいジムの利用料金は高額だが、出場を前提とするなら大幅に割り引いてくれるらしい。こうして始まるU野とO島の肉体改造の日々。O島は多忙のため単なる二人三脚ではなく、高身長ビルダーのT井や美容担当のE藤コーチなど、様々な「見せる(魅せる)」ことを生業とする女に囲まれる百合小説・・・
ではない(少なくとも恋愛要素がないという意味で。とはいえ百合妄想はいくらでもできる)のだが、そういった予感をさせるほどに本書には様々な女性が登場し、彼女たちが身体を改造するのには彼女たちそれぞれの理由があるのがポイントである。例えば筋肉に対するアプローチが一貫しているO島とのやりとりでは、既存のジェンダー観を揺らがせるような会話が多く出てくる。他方で美容担当のE藤との会話では、脱毛やメイクなど、ある意味オーソドックスな美容目線での肉体改造が実践されていく。これは既存のジェンダー観を強化していくアプローチとも言える。
結果的にU野は、従来的な女らしさと女らしくなさの間で、「自分らしい自分」を作り上げていくことになる。つまりこれは自分の身体を利用したクリエイティブな作業なのだ、という納得感と合わせて。見た目からして変容していくため、会社や親族の反応も変化してくるが、周囲の見方が変化するのは既存のジェンダー観が先入観として存在するからでもあることにU野は気づく。
他方で、ここで感情が揺らいだり悩んだりするまもなく大会の日が近づくため、良くも悪くも自分の感情に向き合うことより身体に向き合う時間のほうが分厚くなっていく。自分で自分を鍛えていた時代とは違い、他者や締め切りによって自分の身体が変化してゆくわけだが、最初にあった戸惑いを通り越して一種の快楽に近づいていくのもまた面白い。他者に見せることを前提に作り上げる身体への期待感は、単純なナルシシズムとは異なる意味を持っている。
本作は筋トレやボディビルを通じた自分探し小説としても読めるかもしれないし、既存のジェンダー観を破壊して新しいイメージや新しい自分を創造する小説としても読めるかもしれない。あとは単純に、社会人になってから仕事とは別の何かにのめりこんでいく時の快楽や高揚感を味わうのも、一興である。
[2023.2.2]