価値観の転覆、人生の反転 ――ソン・ウォンピョン(2021)『三十の反撃』(訳)矢島暁子、祥伝社

バーニング
Mar 19, 2023

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日本では2020年に本屋大賞の翻訳部門1位を受賞した『アーモンド』が有名なソン・ウォンピョン。その『アーモンド』をまだ読めていないので順番が前後してしまったが、30歳、非正規雇用の主人公が心の内に秘めるかすかな「反抗心」を丁寧に掬い取ったのが本作。

1988年、まさにソウルオリンピックが開催されていたその時に誕生したキム・ジヘ。ジヘは「知恵」と表記することから、ミス・ワイズ!というあだ名が登場するわけだが、その当時はあまりにもありふれた名前(かつ、名字も一般的)だったため、同級生にたくさんのキム・ジヘがいたことにコンプレックスを抱えながら育ったようだ。その主人公が働く、DM社という文化事業を展開する会社が本書の舞台になっている。

インターンという名目で入社してから、永遠に正規雇用には昇格しないジヘ。同じくインターン(という名の非正規雇用)で最近入社した、イ・ギュオクの熱心な仕事ぶりを見ていて、非正規なんだからそこまでしなくてもいいのに・・・と思いつつ口には出せないジヘ。他方で思ったことは比較的口に出し、会社の福利厚生の一つであるウクレレ教室への参加をジヘに持ち掛けるギュオク。果たして二人の関係は発展するのか・・・という小説でもなさそうだ。

本書は何か特別なことが起こるというよりは、ジヘやギュオクといった、とりたてて目立った経歴や特技を持つこともない、ありふれた韓国の若者たちが、労働というどうしようもない毎日の実践の中でも小さな「転覆」を試みることは可能ではないか、と模索してゆく小説である。

酒の席で突然はっと正気に戻る時がある。私を目覚めさせたのは「転覆」という言葉だった。その単語は異質で耳慣れなかった。転覆。確かに私はその言葉を聞いた。細目をあけて寝ていなかったふりをして、体をゆっくり起こした。 ギュオクが会話をリードしていた。
「僕たちに必要なのは転覆です。目に見える転覆ではなく、価値観の転覆です」(p.78)

転覆とは何ぞや、価値観の転覆とは何ぞやということはまだここでは詳細に語られない。ただ、ギュオクが単に仕事熱心なだけではないことがジヘに強く感じられる良いシーンである。ジヘは自分のことを振り返る。私にもやりたいことがあったはずではなかったか、と。

「三十の反撃」というのは会社に対する反撃というより、自分の人生を反転させることなのだろうなと思った。ずっと平凡だったし、これからもそうかもしれない。おそらくこの先、劇的に人生が変わることはきっとない。でもその平凡な人生を、少しでも良くすること、自分の望んだものに近づけることはできるのではないか、と。

自分の中の価値観の変化を自覚しながら、外に向かってささやかなアクションを起こす。そういった意味では、遅れてきた自分探し小説でもあり、青春小説でもあったのかもしれない。そうでなければ、覆面をかぶってステージに上がるなんてことはきっとできないだろう、おそらく。

[2023.3.19]

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Written by バーニング

90年生まれ。アイコンは@koyomi_matsubaさんデザイン。連絡先:burningsan@gmail.com

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