内側から見た世界のこと、あるいは彼ら彼女らの途上 ――キム・エラン(2019)『外は夏』(訳)古川綾子、亜紀書房

バーニング
4 min readJan 27, 2020

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以前『走れ、オヤジ殿』を読んで感じたのは、彼女は何より人を書くのがうまいということだった。とりたてて特別な、目立つキャラクターが出てくるわけではなく、むしろこの社会のどこかに生きているような人たちであることが多い。けれども、その平凡さや日常、あるいは彼ら彼女らのたどってきた過去を非常に味わい深く表現する、そういう作家だと感じた。

そう思いながら読んだ冒頭の一作にいきなりやられてしまうというか、ここまでの小説を書ける作家だったのかと、いい意味で驚きを得た。日経新聞の書評でも紹介されているように、1990年代後半から2000年代にかけて社会人となっていったIMF世代の抱える悩みや葛藤、不平等への意識に彼女は非常に敏感である。

彼女自身もこの世代であり、また世代的に日本の氷河期世代とも重なるせいか、彼女の書くキャラクターの感情には親近感がある。もちろん、あまりいい形での親近感ではないから複雑な思いこそするが、つらいのは私だけじゃないと勇気づけられる読者は日韓両国双方にたくさんいるのだろうと思いを馳せたりもする。

前置きが長くなったが、『走れ、オヤジ殿』が非常にユーモラスな形でリアルな感情を書き取った短編が多かったとするならば、本作はどちらかというとただただ静かにキャラクターに寄り添う形の小説が多い。たとえば「立冬」の夫妻は、不運な形で子どもを交通事故で亡くした後を生きる二人でもある。

妻もまた心に病を抱え、日々の生活を続けるだけで精一杯な中、仕事をしながら妻を支える夫の存在が描かれる。そのやりとりは本当に日常的で生活的なものだ。子の通っていた保育園からのおたより、家具やインテリアのこと、食事のこと、仕事のこと、二人にとっての親の存在などなど、わたしたちの日常にも同様に存在するものを手がかりに、夫婦の感情の揺らぎを丹念に描いていく。

たとえばチェ・ウニョンが『ショウコの微笑』で書いたキャラクターのように、彼らは遠くへ行ったりはしない。近い場所を行き来しながら、日々を紡いでいくことに必死だからだ。こうした筆致は他の短編にも引き継がれていく。若いカップルを描く「向こう側」でも外よりも家の中での描写が印象に残る。ややSF的な設定が際立つ「沈黙の未来」もそのままどこかの「内側」を書いた短編だが、これを単なるSFとして受けとる人は少ないだろう。多くの人が息苦しい「内側」を生き抜くために、日々を生きているのだから。

「ノ・チャンソンとエヴァン」は病気になった犬をなんとか治したいと自力で模索する少年の話で、このお話だけ少し毛色が違うものの、身近なものへの感情の動きをベースにストーリーを進めていくスタイルは『外の夏』において一貫した姿勢だなと感じた。

身近なものはなにも人間や動物だけではなく、「どこに行きたいのですか」にはiOSに内蔵されたSiriが登場する。わたしたちは何も人間だけの世界を生きているわけではない。どこにはペットもいれば、テクノロジーもある。それらとのコミュニケーションをも生活の一部として考えるならば、意外と世界は豊かなのかもしれないと感じた。

どの短編のどのキャラクターも何かをしたい、どこかにいきたい。自分のために、あるいは大切な誰かのために、もしくはそれすら分からないけれどただただ。こういった感情の動きにすぐそばで寄り添うからこそ、キム・エランの書くキャラクターには深みが生まれる。時にそれはあまりにも深い悲しみかもしれないが、同じ世界で生きているのかもしれない彼ら彼女らのことを思うことはできる。その途上の行く末を祈りながら、静かな場所で読みたい一冊。

[2020.1.28]

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Written by バーニング

90年生まれ。アイコンは@koyomi_matsubaさんデザイン。連絡先:burningsan@gmail.com

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