冷たい感情と追憶、長い沈黙、優しさと悲しみ ――イーユン・リー(2015)『独りでいるより優しくて』(訳)篠森ゆりこ、河出書房新社
イーユン・リーはデビュー短編集『千年の祈り』をたまたま手に取ったのが最初で、、長編は本作が初めて。『千年の祈り』で読んだあたたかさと寂しさのあふれた小説たちとは違い、本作はあきらめとか無情といった言葉がふさわしい。プラスでもマイナスでもなく、とことん冷たくなっていく感情と追憶だけがこの小説にはふんだんに書き込まれている。
では、そういった感情しかないのはなぜなのか。明確な答えはこの小説の構成上の都合、と言ったところなのだろうけれど、訳者あとがきにあるようにリーの中国に対する思いの強さがなければ書かれなかった小説なのだろうとは思う。その上で。『千年の祈り』とはまた違うアプローチで、ポスト天安門事件を生きる世代を書こうとしている。
『千年の祈り』でのいくつかの短編もそうだったが、天安門事件そのものが重要なのではない。ただ、確実にリーはこの事件を意識して、この事件以後の社会を書いていた。翻って本作の場合は、舞台のほとんどはアメリカになる。
主要な人物3人、泊陽(ボーヤン)と如玉(ルーユイ)、黙然(モーラン)のうち泊陽以外の2人はアメリカに在住し、それぞれの生活をしている。高校時代の過去編には少艾(シャオアイ)という3人にとって重要な少女が登場し、高校時代と現代が小説のなかで交互に展開されていく。気になるのは、高校時代に起きた毒の混入事件だ。
現代編。アメリカで生きる如玉と黙然にとっては、なんとかして中国を脱出してアメリカで生活することがかなった、という点においてはポジティブにとれる。中国に対して悲観していたり非難するような書き方をしているわけではないものの、アメリカでの生活にあこがれや期待を持って彼女たちが生きていることは書かれている。
とはいえ、最初のに書いたように彼女たちの生活の中に希望のようなものはほとんど見えない。死ぬ理由があるわけではないが、はっきりと生きている意味があるわけでもなく、ただ生きているだけの日々のような、沈黙の日々がそこにはある。
単行本で370ページほどあるまずまずの長編だが、クライマックスに至るまでの日々はなかなかに長い。基本的には主要3人の語りを通した記述や内面の描写が続いていくが、クライマックスに至る終盤まで大きな波がなく(いかにも純文学らしいとは言える)、また過去の事件の謎がはっきりと解かれるわけではない。
なぜならばミステリー小説のような展開をかいま見せつつも、ミステリー小説のような書き方をリーはしていないからだ。では長い沈黙と、終盤でのある2人の再会がもたらすものとはなんなのだろうか。謎は解かれないとするならば、この事件の呪縛の下で生きる3人にとって救いはあるのだろうか。
唯一中国に残った泊陽の生き方は、如玉が黙然の二人と比べると大きく違うものに映るかもしれない。性別の違いはもちろんあるが、泊陽だけが過去と一番近い場所にいたことで、如玉と黙然のような苦しみを負うことはなかった。
違う種類の苦しみはあるとしても、異国でもがきながら生きる2人とは何もかもが違う。アメリカから北京に旅立つ前、「人は過去を持つことをどうしても避けられない」(p.311)とふと考える如玉の心境はこの小説全体を象徴していると言ってもいい。この小説を成り立たせているものは、生きている限り「過去を持つこと」から「避けられない」という、誰にとってもどうしようもない明確な(悲しい)事実だからだ。
最終盤、泊陽は「彼女(黙然)には距離を置く権利がある」と言う(p.362)。対して如玉は距離を近づけようとした。それは中国という、それぞれの過去が宿る場所に対する生き方の差異が明確に表れた最終盤の展開だった。生きている限り過去がつきまとうなら、その過去に対する自分の距離の取り方をコントロールするしかない。黙然と如玉の決断は、それぞれがそれぞれを救いうるかもしれない。
[2019.6.30]