一言で言うと、素晴らしい読書体験だった。書こうと思っても容易には書けないし、あるいは読もうと思っても容易には読めないような文章に出会った時に身体が震えるような感覚を覚えることがあるが、本書の場合冒頭のつかみからこのパターンの読書だった。終始と言うわけではないが、本書に書かれてある様々なものごとに驚き、そして追憶の思いを馳せる一冊だった。
約100年前、ケニアはナイロビの高地におけるコーヒー農園経営の話から始まる。著者はデンマーク出身だが、著者の夫とその親族たちが購入した4500エーカーの土地を、コーヒー農園として経営するために、彼女は2ヨーロッパからはるばるナイロビの地を踏む。
20世紀初頭のヨーロッパはまだしも、あの頃のアフリカが一体どのようなものなのかは想像がつかなかったが、本書を読み進めていくと、もちろんケニア、ナイロビという限られた土地のものではあるけれどもそこに根付いた奥深さに浸ることができる。
コーヒー農園の経営が破綻するまでの10年少々の歳月の中で、著者は現地のいくつかの部族の風習や文化に触れ、人間関係に巻き込まれ、またいくつかの争いにも直面する。これらの描写を、まるで小説を書くような筆致で感情豊かに、かつディティールにこだわって書きこんでいる。著者は小説家でもあるので、驚くことではないのかもしれない。
当初はヨーロッパに戻ってから本作を書き上げたのかと思っていたが、「書きものはいつも食堂でやっていた」(p.62)などといった風に文章を書くというエピソードはいくつか登場しているので、いくつかのリアリティ豊かなエピソードはその当時につづっていたものかもしれない。
文章を書く、本を作る、という行為がしかし、当地に住む人、とりわけ子どもたちには新鮮に映ったようだ。次のエピソードが好きだ。
かたくて丈夫な本をつくるのは高くつくのだと、私は答えた。
カマンテはしばらくだまっていた。それから私の本のことをうたがっていたのを後悔し、いまや大いに期待していることを示そうというのか、床にちらばった紙をひろいあつめてテーブルの上においた。それがすんでからもまだ出てゆこうとはしないで、テーブルのそばに立ってじっとしていた。「ムサブ、本というものにはどんなことが書いてあるの?」
私は『オデュッセイア』から例を引いて、ボリュペーモスとオデュッセウスの物語を話してきかせた。
(中略)
「ムサブもおんなじことを書かなければならないの?」
「いいえ、だれでも自分の書きたいことを書けばいいの。私、カマンテのことを書こうかな」
心をひらいて話していたカマンテは、急に内にとじこもる様子をみせ、自分の姿に目を落して、低い声で、自分のどんなところを書くつもりかときいた。
(イサク・ディネセン(2018)pp.66–67)
著者のようなヨーロッパ出身者との交流も様々描写があり、中でもデニスとの関係は複雑で切ない。最後はコーヒー農園の経営難が続き、アフリカを去る日の出来事までが書かれる。アフリカ生活の幕切れは現実的で非常に悲しい。本書の冒頭20ページにわたってつづられるコーヒー農園の景色は非常に美しい。
いずれにせよ本書の中には作家にとってのアフリカの日々が色濃く凝縮されている。当然のように、そこには悲喜こもごも様々がある。理解できない出来事もあれば、初めて触れて感動する体験もある。死の匂いは身近にあるが、恐怖心が身近にあるとは限らない。これらの著者の体験は、100年後に生きる読者、特に容易に旅に出かけられない時代の読者にとって、至上のものに映る。
[2021.4.20]