始まる前と、終わった後の彼女たちのこと ――武田綾乃(2021=2023)『飛び立つ君の背中を見上げる』宝島社

バーニング
Aug 31, 2023

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夏紀は誰かに部活に誘われたからってそう簡単に受け入れるような人間じゃない。 それでも希美だったから、その賭けに乗ることにした。相手が、希美だったから。(武田2021:90)

2021年刊行時にすぐ購入したが、そのあと読むまでに時間がかかった理由は別にある。一番の理由は、自分の中でこの物語を終わらせたくなかったからだろうな、ということだ。原作が一区切りついた以上、少なくとも北宇治高校の吹奏楽部の物語が新たに作られることはほとんどないだろう、あったとしても外伝的なエピソードだろうと思ったし、本作もその外伝的なエピソードの一つだと思っていた。半分はそうだが、半分はそうでなかったな、というのが読み終えての感想だ。

まず本作が面白いのは、一貫して中川夏紀を主人公に据えているところだろう。彼女を含めた3年生の4人(吉川優子、傘木希美、鎧塚みぞれ)の「その後」の物語を書くならば、4人がそれぞれ主人公の各章を書くものだと思っていた。だが武田綾乃が選択したのは、夏紀の視点で彼女が3人に対して向ける感情(愛情とも言えるような)を書くことだった。そして同時に、中川夏紀というキャラクターを掘り下げることも両立している。

これはつまり、本編で黄前久美子を主人公に立てながら、彼女の目線で部員をみつめ、吹奏楽部の様子や雰囲気を書いていくというスタイルを応用しているとも言える。久美子は進級した後に部長になるが、夏紀は本編でも副部長を務めていた。

そのため夏紀自分の立場の中でどのように見ていたかも、とりわけ優子が絡んだ第三話では重要になってくる。また夏紀自身がどのように見られていたのか、なぜ優子のパートナーとして夏紀がふさわしいのかを語る田中あすかのコメントはいかにもな田中あすからしい論理性が垣間見えて面白い。

話を戻すと、まずは第一話で希美との関係が描かれる。この話数では主にユーフォの本編が「始まる前」のエピソードが多く書かれている。夏紀たちの学年が1年生だったころ(つまり香織やあすかが2年生だったころ)は、各学年の部に対する熱量に温度差があり、とりわけやる気に満ちた1年生と、熱意を冷却している3年生との対立が際立っていた時期として本編でも語られていた。その対立の模様が具体的に描かれるが、武田綾乃が優れているのは、3年生の部員については誰一人固有名詞を残さないところだろう。

つまり3年生は集団として描かれるが、固有名詞がない、つまり顔のない存在だ。顔のない、しかし部活の中では最も影響力を持つ存在は、顔はあるけれど影響力をほとんど持たない1年生にとっては煩わしい存在でしかない。このような対立関係の中で希美がとる行動、そして夏紀のとった選択は、いずれも「らしいな」と思わせるものである。

第二話と第三話は「その後」を中心に描く。同学年で唯一音大を受験するみぞれの努力と、みぞれを見守る希美や優子たち。そして最後は、夏紀と優子という美しいデコボココンビのラストダンスを書く。本作が一貫しているのは、キャラクターを見守ってきた武田綾乃の優しさだなと思う。

どの話数どのキャラクターにおいても、これまでのイメージを大きく裏切ることはなく、むしろこれまでのイメージをさらに深めていく構成になっている。残り僅かな高校生活といった特別な時間(この時間を切り取った人間ドラマは『Just Because!』を少し思い出す)を特別なものとして書きつつ、さらにその後(としての大学生活)もイメージさせることも試みている。

このシリーズが高校吹奏楽部をフィールドとしてきたものであることから彼女たちの大学生活が描かれるとは思えないが、二次創作ではきっと多く展開されていくのだろう。それくらい、愛くるしい「先輩たち」の姿だなと思ったし、彼女たちを見送った久美子の目線にようやく立つことができる、そういう特別な感情を抱かせるには十分な仕上がりを持った、一冊である。

[2023.9.1]

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Written by バーニング

90年生まれ。アイコンは@koyomi_matsubaさんデザイン。連絡先:burningsan@gmail.com

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