この長い小説をじっくり読む中で「面白いなと思うのは、立場の違いを相互に具体的に表明し合っているところですね。だから分かり合えないね、となるのではなくてああこの部分では違うんだな、でもいい人なのは違いないからな、と語り合うことで自分の中の落としどころを二人の姉妹がそれぞれに探っているところがよい」とツイートをした。読み終えても感じるのは一緒で、最終的に二人の姉妹がどのいうな決断をするのかが、非常にスリリングに、ドラマチックに描かれるのがこの小説の魅力である。
理性を重んじるエリナー(姉)と情動豊かで直感的な妹マリアンの、二人の姉妹の婚活劇がストーリーの軸になる。性格の全く違う二人がどのような男たちと出会い、あるいはどのような女たち(恋敵であったり、親戚であったり)と出会っていくのかを詳細に、かつ人間味あふれる描写でつづっているのがジェイン・オースティンらしいところだ。
現代もそうだが、婚活では様々な他者と出会い、自分と相手の価値観の差異を検討していく作業を繰り返し行う。誰がいいのか、あるいは誰であってはだめなのかを吟味する中で見えてくるものがあれば、迷子になることもある。恋愛をするのにふさわしい相手と結婚をするのにふさわしい相手が違うという話は現代の婚活でも展開されるが、この小説でも中心的に扱われる。付け加えて男の年収を吟味する女たちの視線は、いつの時代もシビアだ。
北脇徳子によれば、「『分別と多感』は、ジェイン・オースティン自身の心の中の葛藤、すなわち、合理主義的な面とロマンティックな面の葛藤を、エリナーとマリアンの二人の登場人物によって描きだそうとした作品である」と本作を評している。エリナーとマリアンは前述したように全く性格が異なるし、二人とも最初に好意を持つ男性の性格も全く異なる。ただ、それをオースティンは小説の中で安易にジャッジすることはない。
エリナーがマリアンのことをどう思っているか、あるいはマリアンがエリナーのことをどう思っているかは会話や地の文でその都度説明されるが、マリアンは姉のことを最初はあまり信頼していないように見て、自身の恋愛の挫折をきっかけに自身を振り返り、また姉のことを振り返るようになる。こうした内省はマリアンだけでなくエリナーにも見られる。先ほどの北脇の論文の中では、本作は一討論であるという言説も紹介されるが、それと同じくらい内省が重視されている小説である。もちろん、討論あってこその内省というパターンも多いので、この二つは相関している)。
いわば、エリナーもマリアンもないものねだりの感覚を隠そうとしないのだ。エリナーは常に冷静で落ち着いているが、であるがゆえに情動的に、直観的に振舞うことのできる妹をうらやましくも思う。マリアンもまた、自身の恋愛の挫折をきっかけにして、姉の姉たるゆえんは姉の性格が自分と違う中でも自分のことを愛してくれたことを知り、マリアンもまた姉への愛情を分かりやすく表明する。
「私たちの振る舞い方はぜんぜん違っていたけど、置かれていた状況は似たようなものよ。ね、お姉さま、あなたが私の振る舞いにきびしい判断を下しているのはよくわかっているわ。だから、やさしい思いやりなんかで私を弁護しないで。私は病気をしたおかげで、いろいろ考えさせられたの。真剣にわが身を振り返る時間と心の落ち着きを、病気が与えてくれたの。(中略)お姉さまというお手本が目の前にあるのに、何の役にも立たなかったわ。お姉さまのことや、お姉さまを少しでも楽にしてあげることを少しは考えるようになったかしら? お姉さまの自制心と忍耐心を少しは見習うようになったかしら?」(pp.476–477)
マリアンは物語の前半では面と向かって姉の態度を批判するが、姉は妹を控えめに批判するにとどまる。それが、マリアンの恋愛の挫折、そしてその後の神経症とも抑うつともとれるような症状による療養を経て、マリアンは姉の姉たるゆえんをようやく知るのだ。婚活をしていたころはまだ10代後半だったマリアンにとって、彼女もまた成長の過程で内省を重ねることで、最初よりもさらに魅力的なキャラに変わってゆく。
ここで改めてエリナーの魅力を再確認できる。一見退屈に見える彼女の性格だが、男性たちに対する彼女の接し方や、ここでは紹介できていないがルーシーのような悪女たちとの接し方も含め、彼女の冷静さと落ち着きがあるからこそ物語は前へ向かって展開してゆく。エリナーの決断や選択の積み重ねの結末がハッピーエンドであることを心の中で願う気持ちもまた、彼女の控えめな人間らしさを表していて好きだ。そして何より、マリアンに対する姉としての愛情に、強く心を打たれる。
人間というものは、自分の利益だけを考えてうまずたゆまず努力すれば、たとえ途中で挫折したかに見えても、時間と良心を犠牲にしただけで、最後にはあらゆる幸運をつかむことができるのだ(p.520)
[2021.6.12]