孤独から彼女を救えるのは ――ハン・ガン(2011)『菜食主義者』(訳)きむ ふな、クオン

バーニング
4 min readJun 28, 2019

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ここしばらくいろいろな出版社から刊行が続いている現代韓国文学だが、その先陣を切ったのは間違いなくクオンから刊行が始まった「新しい韓国の文学」シリーズだろう。2011年から始まった本シリーズは年々刊行点数を伸ばしているが、海外でも高評価を浴びたハン・ガンの本作がシリーズの一作目となっている。

本作は「菜食主義者」、「蒙古斑」、「木の花火」といった異なる時期に発表された3つのストーリーで構成されている。ばらばらに読むことができるが、ある日突然菜食主義者となってしまった女性、ヨンヘというキャラクターを理解するためには、一続きのものとして読んだほうがよい。いや、ここでは「理解する」という言葉も、あまり容易に使うべきではないのかもしれないが。

それぞれ語り手は異なっていて、常に「菜食主義者」たるヨンヘは客体として書かれる。まずは夫から、そして次は義兄(夫の兄)から、そして最後は実姉から。夫からはあまりにも理解し得ない異質な存在として、義兄からは逆に官能的で魅力的も映る存在として、そして最後、姉であるインへは、ヨンヘに寄り添いたいと思う気持ちを、最後まで持ち続ける(しかしやはり断絶はある)存在として。

インへのパートを最後に読むと、夫も義兄も、ヨンヘに向けるまなざしは結局のところ他人なのだなと感じてしまう。それはおそらく、そういう存在として二人の男性を書いているからだろうけれど、結果的に男と女のパートへと昇華させていく「蒙古斑」は美しくもあり、かなり罪悪的だ。アートのロジックを使ってはいるけれど、いわゆる寝取られの展開にしていくこと、そこにある種の救いを見いだそうとしてしまうロジックがまた、痛々しくてたまらない。

いままで読んできた何冊かの小説を総合しても、ハン・ガンはある意味、そういう風にしてキャラクターの痛みをさらに広げようとするところがある気がする。もちろんインへのように、痛みに寄り添うキャラクターも書く。

しかし、寄り添おうとすればするほど、待っているのは断絶なのだ。近くにいるのに遠ざかって行く妹を前にして、インへはあまりにも無力だ。「木の花火」の終盤、ヨンヘを見舞っていた病院でインへはある行動に出るが、彼女の行為はきっと客観的には正当化されない。それはヨンヘの命を脅かす行為だからだ。しかし、これまでのヨンヘとインへとの間に存在した姉妹との関係性を無視することなく、インへの行為を否定できるだろうか。

痛みを抱えているのは、何も一人とは限らない。『ギリシャ語の時間』はまさにそういった話で、不器用でぎこちないながらも、連帯することの可能性が描かれていた。本作においてヨンヘとインへは、連帯することはできない。あるとすれば、ヨンヘの哲学にインへが引き込まれるくらいだろう。でもそうしたところでやはりヨンヘを理解することはできないだろうし、同じような痛みをインへが抱えこむだけだ。自分以外の誰からも、自分の気持ちや考えを分かってもらえないという、圧倒的な孤独を。

だとするならば、もう「理解する」ということはあきらめたほうがよいのかもしれない。夫のように突き放したり、強引に引き戻すのではなく、義兄のように性的な表現を試みるのでもない。インへがしたように、ただそばにいること。理解はできないにしても、ヨンヘの存在を肯定すること。それだけでよかったはずなのに、なんてそれが難しいことか。(もちろん、容易であればヨンヘはここまで孤立はしない)

ヨンヘを救うことがいかに困難であるのかということは、あるいは彼女の孤独を理解するためには、彼女を他のマイノリティに置き換えても良いのかもしれない。マジョリティーが幅を利かす世界では、菜食主義者だけでなく、様々なマイノリティが生きづらさを感じる。痛みを背負う。そういう社会に、私たちは生きている。

なるほど残酷な社会であることは表題作がまさにそうであると示しているわけだが、「木の花火」が書かれたことでハン・ガンの祈りが見えた気がした。ここに百合的想像力も少し含まれるのも、まさに女性的な祈りのアプローチなのだろうと思った。

[2019.6.28]

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Written by バーニング

90年生まれ。アイコンは@koyomi_matsubaさんデザイン。連絡先:burningsan@gmail.com

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