寂しさともの悲しさの漂う後期作品集の醍醐味 ――スコット・フィッツジェラルド(2019)『ある作家の夕刻 フィッツジェラルド後期作品集』(訳)村上春樹、中央公論新社
村上春樹が翻訳した海外文学はいくつか読んできていて、最近だとカーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』のビビッドな翻訳を面白がりながら読むこともあったが、フィッツジェラルドを訳したものはこれが初めての経験となる。
過去にも訳したことがあり、春樹自身が作風や文体などの影響も受けているであろう作家のひとりだと思うが、そのフィッツジェラルドの中でも『グレート・ギャッツビー』などの華やかなりし時代の小説ではなく、ゼルダと結婚したり娘が生まれたり、そしてそのゼルダが病んで入退院を繰り返したりしていた30代に生み出した短編が多く含められている(少ないがエッセイもあり)
短編小説が8編、エッセイが5編収められているが、その短編小説も自伝的な要素を含むもの(「ひとの犯す過ち」や「ある作家の午後」など)も複数あるため、後半に収められているエッセイですら小説のように読めてしまう面白さが往々にしてあるなと感じた。また、冒頭の「異国の旅人」は全体から見るとやや毛色が違うものの、先ほど挙げた「ひとの犯す過ち」のように夫婦関係の困難が題材としてとらえられているのはこのころのフィッツジェラルドを想像するにはなかなかリアルかもしれない。
もちろんただただ作家の私生活のリアリティを、小説を通じて楽しむことだけが本書の魅力ではない。帯に書いてあるように、まるで「早すぎる死を予期したかのように」つづられる小説のもの悲しさこそが魅力である。「ある作家の午後」、「フィネガンの借金」、「失われた十年」はいずれも作家生活や文芸業界をやや冷めた目で俯瞰した短い小説になっているが、これらを30代の時点ですでに書いているのはもうすでに終わりを見据えていたのでは、と予感させなくもないのだ。
『グレート・ギャッツビー』は一青年の成り上がりを誇張的に賞賛しながら同時に冷めた目で批評するような小説でもあったが、『グレート・ギャッツビー』を若くして書き上げた自分自身のことを題材としてとる必要にかられる程度には、小説として書きたいことの軸足がよりプライベートなものに移ってきたことの表れでもあるのだろうと受け止めた。妻や娘のことも書くし、自分のことも書く。フィクションに仮託することもあれば、エッセイとして素直に書くこともある。
いずれにしても、書くことで何かを探そうとした30代のフィッツジェラルドを村上春樹の文体は鮮やかでもあり、同時に寂しさも漂う。それを美しいと表現するのが適切かどうかは微妙な気もするが、フィッツジェラルドという小説家の醍醐味を知るためには優れた一冊には違いない。
[2021.6.19]