モディアノは2014年のノーベル賞受賞のタイミングで何冊か図書館で借りて読んだがそれっきりで、しばらく読んでいなかった。久しぶり(それ以来約6年ぶり?)に図書館で検索をかけると思った以上に蔵書を揃えていたのでまた少しずつ読んでいくことにした。蔵書が増えたのはノーベル賞受賞の影響もあるようで、ありがたい限りである。
前置きはさておき、本作は「父なき世代の小説」とくくられているようだが、読んだ感想としては間接的な「父殺し」小説かなと思った。それに加えて一種の堕落小説でもある。パリという一般的には華やかなりし舞台の中で、ただただ父を探し、その過程でさまよい続ける青年の姿はポストモダン的だなと思う一方で、どこにでもいそうな市井の人々を丹念に書いた結果とも言えると感じた。
ユダヤ系の父の行く末を、その影を追いかける構図は西ヨーロッパらしい複雑な事情を背景にしているのだろうと思われる(訳者あとがきでは第二次大戦中のナチス占領期について触れられている)。イスラエル以外に居住するユダヤ人は永遠のディアスポラとも言えるわけで、その影を捕まえようとしても簡単には捕まらない構図になるのは自明のことだ。戦争が終わり、占領され、迫害される時代が終わったからといって、残されたユダヤ人がやユダヤ系の人々がの「さまよい」が終わるわけではない。
モディアノは一貫してパリを舞台にした小説を書き続けたきたが、本作の新装版(2014年)の序文には「このような雰囲気や、男爵とか自称する父をはじめとするあやしげな人間たちは、今日、パリにも、ロンドンにも、ニューヨークにも、また東京にも見られるのだ」(p.4)と記している。確かにあやしげな人間たちこそが都市生活を形作るし、モディアノはそうした光景を他の小説でも見つめ続けている。主人公も、そして父もこのカテゴリーに入れていいのかもしれない。
都市生活における普遍性は、例えばかつてヘミングウェイが書いてきたものもそうかもしれない。時代ごとの風俗的特徴の差異はあれど、その本質は通じるものがある。だから2021年の日本でこの小説を読んでも、「あやしげな人間たち」が遠い人物のようには決して思えないなと感じた読書体験だった。
[2021.3.3]