著者のことは正直よく知らなかったが、じわじわとこの本の感想を語る人が多くなった印象のある2024年だった。2024年のベスト10に挙げている人も多くいた。そういうわけでこの本の情報はすでに多分に摂取しており、今年になってから最初に行った本屋でふとこの本が目に入ったので手に取ることにした。
年初に読むテーマかどうかというと、どちらかというと暮れの方が良かったなと言う気がしていたが、読み始めるとこれは「いつ読んでもいい」タイプの本だなということに気づかされる。その理由は何より、多くの身近な死を経験した著者が本書を書くにあたって選択した文体の魅力にあるからだ。
人の死を記述する時の文体として本書のような選択をとることは珍しいかもしれない。インターネットのブログ、特にはてな匿名ダイアリーのようなところだとあえてこうしたライトな文体を選択することもあるとは思うが(それはノリとかユーモアとか共時性が重視されるからだろう)。本書は本というしばらくは形として残るメディアでありながら、つまりこの本を読む人はいつどこで手に取っているのかも定かではないという前提条件を踏まえながら、それでも非常にライトな語り口を選択している。
それはなぜなのだろうと思いながら、しばらく読んでいた。著者は身近な人の死をいたく悲しむこともあれば、身近な人の死を近くで目撃した人の振る舞いに怒りを覚えることもある(特に父の死に関するエピソード)。あるいは、終盤で語られる雨宮まみの死のように、著者自身が整理できていないことを正直に語る場面もある。
雨宮まみさんのことは、書くかどうかずっと迷っていた。まだ自分の中で彼女の死を整理できていなかったから。「一人だけ突出した有名な人のことを書くと、本全体の構成がぼやけてしまうかもしれない」という編集者としての考えもあった。
それでも最終的に書こうと決めたのは、雨宮さんの新刊『40歳がくる!』を読んだから。「整理できてから書く」というのは、たぶん順番が違うのだ。「書くことで整理しよう」と思う。(p.176)
この文章を読んで最初に思いついたのは、日本では伊藤絵美などが紹介している認知行動療法の技法の一つである「外在化」だ。
伊藤によると外在化とは、「自己観察の結果わかったことをアセスメントシート」などの用紙に書き出すことを言います。自分のなかで体験されたことを書くという作業によって『外』に出すので、『外在化』と呼ぶのです」という一連の作業を指す(前掲書、p.118)。本書『死なれちゃったあとで』はもともと同人誌として前田が書いた本のようだが、前田にとってこの本を書くという作業は自分の中にある感情を整理し、可視化するための作業だったのだろう。同人誌、商業誌という2回の執筆ステップを踏むことで、彼の「整理」は進んでいったのだと推測できる。
つらい経験や悲しい記憶を他人に語って聞かせるのは難しい。そもそも、自分がそれらをどのように語れば良いのかについても、その場その場で適切さが異なるだろう。その点、本というメディアはある程度自分に自由度があるのかもしれない。インターネットに書きこんだら即興的な反応が返ってくるだろうが、本というメディアは遅いメディアだから、インターネットより少し時間がかかる反応も得られる。
時間がかかることが著者にもポジティブな影響を及ぼしているエピソードがいくつかある。特に大学時代の後輩Dのエピソードと、インターネット上で眺めていたDのエピソード(イニシャルが一緒だが別人である)はいずれも、その死の詳細を知るまでには時間がかかっている。でも、実のところ他者の死を受け止める際の人の感情というものは。そういうもので良いのかもしれない。人が亡くなったあとに得られる情報はそう多くはないだろう。なんでもかんでも情報が即物的に飛び交い、あっという間に消費されるメディア環境の方が異常なのかもしれない。情報はそういうインスタントなものだけのためにあるべきではない。
前田が本書を書くことで整理できた感情もあれば、そう簡単に整理できなかった感情もあると思う。特に雨宮まみに関しては後者だと感じた。ただ、書くという作業が前田にもたらしたものの多さを、読者は知ることができる。似た経験をした人にとっては、ある種のロールモデルにもなるのかもしれない。感情の抑圧が必ずしも悪いわけではないが、抑圧からゆっくりと離れる作業がもたらす感情や経験には思わぬものがあるのかもしれないとも感じる。
老衰のようにある程度予見された死もあれば、事故死や病死や自死のようにあまりにも急に訪れる死もある。死は誰にでも平等に訪れるが、死に方やタイミングは全く平等などではない。そして「死なれちゃったあと」に遺された人としてどのように生きるのかは、ただでさえ災害の多い国で暮らす者にとって全く縁遠い問いではないだろう。最近だと、先日目にしたNHKの取材番組で、95年の震災で行方不明になった母との別れについて語る女性の語りが印象に残った。
この記事で30年間抱え続けた女性のエピソードを目にすると、すぐに消費され、すぐに忘れられるインターネット上の文章ではなく本として、形のある物として長く残る本と言うメディアであることによって本書がもたらす価値は大きいのではないかと思う。著者とすれば私的なことを書き連ねただけだから、ロールモデルにしてほしいと言う感情は強くないのかもしれない。それでも多くの人に、とりわけ感情の整理がうまくできない人に(それは誰かの死によるものでなくても)本書が読まれることには確かな意味があるはずだと、強く感じる。
[2025.1.20]