手による行為の可能性とその創造的な魅力 ――伊藤亜紗(2020)『手の倫理』講談社選書メチエ

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「手の倫理」という、一見してもよく分からないタイトルではあるが伊藤亜紗の著書なので身体性の美学や哲学の本なのだろうと思って読んでみた。これまで視覚障害や吃音などを扱って来た彼女は、一貫して身体の障害に関心を注いでいる。身体の障害に関心を注ぐということは、そこから転じていったい人間の身体とはいかようなものなのか、という関心へと至っているのではと解釈している。

例えば『目の見えない人は世界をどう見ているのか』では、視覚障害者の生活や日常を丹念に記述することで、健常者とは違う方法で、そして健常者とは異なる豊かな感覚を持って自身の外部の世界を認識していることがよく分かる本だった。それはつまり、身体に障害を持つということは健常者とは異なる身体感覚を「得られるかもしれない」という転換なのだとも感じた。(もちろん先天性の場合と後天性の場合では、身体感覚の違いはあるだろう)

本書も、「手」を通して「倫理」を語るという不思議な切り口ではあるものの、視覚障害者が多く登場する。点字や指文字など、手を使うことで視覚障害者は言葉を文字として認識しているらしいことは知っていた。ただ実際に、彼ら彼女らが「手」に対してどのような意味合いを込めているのかを、あるいは本の帯にもある「さわる」と「ふれる」の違いとは何かを、深く考えたことがなかった。

次の引用が本書の核心を突いていると感じたので、紹介してみよう。

「人間とは」「身体とは」「他者とは」といった一般化された言葉から始めるのではなく、「他人の体にさわる/ふれる」という具体的な行為を通して、倫理について考えていくこと。「まなざし」の距離がとれないような状況で、「接触」というこれ以上ないほど即物的な行為のなかから、人の人に対する振る舞いの別の可能性を探りだすこと。

「倫理」という具体的な状況に対する問いだからこそ、できるかぎり具体的な行為に即して考えてみたい。それが「手に倫理を学ぶ」ことの意味です。(p.44)

正直この部分だけを読んでもまだ抽象的だが、これはあくまで第1章であって、第2章以降で始まる「具体的な行為」の分析が非常に鮮やかで伊藤らしいものに仕上がっている。第2章は手の感覚である「触覚」について分析し、第3章と第4章では「信頼」と「コミュニケーション」について語る。そこからさらに転じて第5章で「共鳴」、第6章で「不埒な手」と、触覚の持つポジティブな側面とネガティブな側面を両面見て回るのだ。

また、第1章では古田徹也の行為の哲学の議論を引きながら、道徳(moral)と倫理(ethics)の区別を行っている。詳しくは本書を参照してほしいが、「倫理が、ある種の創造性を秘めている」(p.40)ことをまず押さえておいた方がよいだろう。

だからこそ「手の倫理」といった、触覚を用いた倫理的行為の分析が開始され、第2章ではその触覚のネガティブさについても触れながら、触覚の持つ行為の意味に深く潜っていく。創造性のある行為は、だからといってすべてが良いものではないし、権力関係的に対等でもない。また、「ふれる」と「さわる」の意味することが厳密には異なるように、小さいながらも暴力性を孕んでいる感覚である。

しかし、本書を読むとそうした感覚を私たちがいかに使い分けたり、可能性を見出そうとしているかも分かる。あるいは本書の著者である伊藤のように、まだ知らない触覚の可能性を探る人もいる。第5章では視覚障害者の陸上競技者であるブラインドランナーとその伴走者とのやりとりについて、第6章では「柔道の翻訳」といったユニークな試みが紹介されている。しかし他方で、第6章で別に紹介されている障害者の介助者が抱える「混同」とそれによる葛藤もまた、触覚によってもたらされるものである。

なぜ「混同」が起きるのか。そしてその「混同」にどのように向き合えばいいのか。ここでも最初に伊藤が述べていた道徳と倫理の差異を活用できる。ゆえに「不道徳だから倫理的」(p.198)という表現が生まれ、行為の分析はさらに深いところに進む。

触覚は時に不埒かもしれないし、暴力的かもしれないし、不道徳かもしれない。だからこそ、道徳から離れて倫理に接近していく伊藤の分析は、倫理の創造性を考えることやその魅力を多様な形で浮かび上がらせてくれる。

[2021.3.2]

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バーニング
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Written by バーニング

90年生まれ。アイコンは@koyomi_matsubaさんデザイン。連絡先:burningsan@gmail.com

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