デビュー作から2作続けて芥川賞の候補になったこと、そしてそのいずれもが太平洋戦争期を舞台とした小説であることで注目を浴びたのも、もう数年以上前のことなのだなと振り返る。3回目の候補となった「短冊の日」で転機を見せ、そしてそこからしばらく経った昨年に「送り火」で栄冠に輝いた。デビュー作若い世代が戦争を書いたということがあまり肯定的にとらえられなかった高橋にとって、もはや本作以降は現代劇しか書かない作家のイメージを焼き付けていることは、果たして幸か不幸か。
さておき、現状では初期の高橋という位置づけになるだろう2作目が本作である。本作はまだ開戦前という時代委から始まるため、戦地の診療所を舞台とした「指の骨」と時代設定は異なるものの、病院を舞台としているところは共通点がある。後に死にゆく娘をみつめ続けた「短冊の日」や、精神的な傷を負った者たちの自助グループの活動を描いた「日曜日の人々」を記す高橋にとって、病というのは根源的なテーマかもしれない。
TB菌という菌に冒され、日々弱っていく妻早季をただただ看病する凛太を書くことに徹する本作は、「短冊の日」で試みたことに近いかもしれない。「短冊の日」よりは十分な長さがあるだけに、『指の骨』で書いたようにキャラクターの存在する、生活する環境への目配せが非常に詳細だ。受付の雰囲気から始まり、院内の部屋の配置、そこに置かれているもの、高橋はあらゆるものを淡々と描写していく。その描写がリアリティを立ち上げているのは言うまでもない。
そして立ち上げているのはリアリティだけではなく、静けさだと思う。病院であるために人は多くいるはずだが、医師も「看護婦」も、必要以上には関わらない。看護のプロである看護婦は、時には看護的理由により、凛太を妻のそばから遠ざけることもある。医師である竹中は凛太へ話をするシーンがいくつかあるものの、だからと言って妻の状況がよくなるわけではない。そればかりか、院内で行われる演劇の話題を振るなど、妻の病状とは無関係な話題も多い。(もっとも、演劇のくだりは早季の病状とは別に趣がある展開ではある)
早季への親密な思いがあるからこそ、凛太はまるで病室に通い婚をするように、早季を見舞う。しかし彼が得たものといえば、弱っていく早季の姿でしかない。この展開は「短冊の日」に非常に似ていて、無力さの中に人がどう向き合うのかということも高橋のテーマなのかもしれない。その意味では、「日曜日の人々」にも通じるものがある。
高橋がなぜこの小説以降、舞台を現代に移したのかは分からない。賞的な理由か、商業的な理由か。サナトリウム文学の焼き直し(早季は結核ではないが)ととらえることもできるが、しかし、高橋の試みはこの小説以降も続いている。その意味では、改めて読む価値のある一作だろう。
[2019.5.20]