高瀬隼子の2作目の小説で、芥川賞候補になったこともあり彼女の名前を広めた小説でもある。本作での受賞はならなかったものの、続く3作目の『おいしいごはんが食べられますように』で受賞を果たした。それが約半年前の出来事だが、彼女の受賞回は史上初めて候補者全員が女性の回でもあり、話題を集めた。NHKがこの回の候補者全員に取材して60分の番組を作ったほどである(番組タイトルに「正しさの時代」と表記する必要はなかったと思うし、ちょっと編集や構成を意識しすぎではとも感じたが)。
話を戻すと、本作のあらすじは非常にシンプルであり、「夫がある日突然風呂に入らなくなり、困惑する妻と風呂に入り続けない夫との日常が続いていく」小説である。次第に夫の体臭がきつくなり、会社からも厳しい対応をされるようになるなど、わりと分かりやすく起承転結のある小説だが、ほとんどこの小説が夫婦の暮らすマンションの一室で展開されるのが大きな特徴と言える。
地方出身の妻と、東京生まれ東京育ちの夫という組み合わせで、どちらも友人が多いとは言えない。そのため、基本的には職場と自宅の往復で平日は過ぎて行き、週末になり、また月曜日が来ると同じような日々が繰り返されてゆく。刺激は少ないが、変化に富まない分、安定している。自分たちも、東京にいるありふれた30代の子なしカップルだと自覚している程である。
小説、とりわけ純文学の場合は社会を穿って見る、少し斜めから切っていく面白さのあるジャンルだが、本作は切れ味が鋭いわけではないけれど、しっかりと時間をかけて深い切り込みを入れられるような、そうした小説だった。
夫婦の間の愛情がどれほどのものかははっきりしないし、そもそも子の夫婦はほとんど対話をしない。夫の変化に困惑しつつも、「夫の気持ちの変化に戸惑いながらも半身で寄り添い、ケアをしてゆく妻」という構図が描かれてゆく。ともすれば保守的なジェンダー観にも見えるが、あえてのこの演出がうまい。戸惑いながら、積極的とも消極的ともいえない半身の形で夫に寄り添うことで、後半の妻の変化にも繋がるからだ。
夫が急に風呂に入らなくなってしまって、困っている。どうしよう、どうしたらいいんだろう、と一日に何度も考える。けれどそれは誰かに相談したいことではなかった。彼女だけが考えていれば良かった。 ということは、解決したいわけではないのかもしれない。 夫に風呂に入ってほしいと思うけれど、その「思う」の強さがたいしたものではないことに、自分でもうすうす気付いている。解決したいと強く思うのであれば、お義母さんに自分から連絡して助けを乞うことだってできたのだ。 わたしはそうしなかった。お義母さんから昨日連絡がきたとき、めんどくさいことになったと思った――。(p.66)
夫が水に対する感覚の変化を感じた理由は、ある違和感がきっかけだった。他方で、違和感があるということは非・違和感、つまり「ぴったりはまる感覚」があるのではないか。そうして夫はある種の水を嫌いながら、また別のある種の水にはこだわりを見せてゆく。こうした夫の変化を病理的にとらえることも可能だろうが、妻はあえてそうはしない。これは仮説だが、そうしなかった理由の一つは、変わってしまった夫に名前をつけなくても、寄り添うことができると知っているからなのではないかと感じた。
夫、妻それぞれの両親が何度か登場することで、二人の夫婦生活にもたしかな「外の世界」があることを明示している。変わってしまったまま生きて行くことはできるのか。それは同じ場所であってよいのか。後半の少し予想外とも言える展開は、ほとんど変わらなかった日常に生まれた変化が生み出した、ダイナミズムの帰結として興味深い様相を呈してゆく。
最後は少しホラーめいた展開も含んでいる(そもそも導入もホラー的だが)が、あえて明示せずに曖昧なままこの小説にケリをつけたことは評価してよいと思う。どんな結末であれこの小説の妻なら受け入れるだろうと思える。この小説は、そうした小説だからだ。
[2023.2.14]