中井久夫を今年はちゃんと読もうという思いで読み始めた一冊だが、40年~60年ほど前に書かれた文章とは思えないほど現代的で読みごたえがあった。それはなぜなのかと言うと、表題の「働く患者」に代表的なように、資本主義下における労働の全面化が要求される時代(戦後の成長期)と重なったのがおそらく大きいからではないかと思う。
本書は「現代社会に生きること」と「現代における生きがい」、そして「サラリーマン労働」という3本のエッセイを読むところから始まる。精神科医である中井久夫の著作集を手にとって最初に読むことになるのが、社会と労働についての文章なのである。これは正直なところ意外であるとともに、じっくり読めば読むほどそこには中井久夫らしい視点が顕在化してくるのが面白い。
中井は仕事の価値を否定するわけではない。ほとんどの人間にとって働くことは重要で、歴史的な営みでもある。
「仕事」が人間性の中にもつ重みは実に大きい。(中略)
とりわけ仕事の過程そのものの中に喜びがある。仕事のもつリズム、仕事の運びのもつ起承転結はわれわれの日々の生理的・心理的時間の具体的な組織者である。仕事はその最良な形において、このようにわれわれの人生をいく重にも意味づけるものである。(p.26)
しかし非常に高度になり、複雑になる現代では仕事の内容も複雑になる。そこでマルクスの言う労働による疎外が(マルクス当時とは違う形で)表れることによって、社会で働く人間に悪影響を及ぼしかねないという話を展開するが、この話の延長にあるのが「世に棲む患者」の統合失調症患者の生活モデル(pp.206–208)だろう。
治療の前提として中井はまず「常識と社会通念とを区別して考えるべきである」(p.204)だと述べる。ここで言う社会通念とは働くこととおおむね同義であるが、障害者支援や貧困者支援の文脈で就労支援ばかりが目立つ現代にこそ、中井の言葉は響きそうだし、「現代社会に生きること」で疎外されがちであると指摘した「基本的な体験」(p.38)の重視とも重なる。
ここで中井の言う「基本的な体験」は生きがいであったり、生きる喜び(趣味や豊かな人間関係)であったりするわけだが、高度で複雑な資本主義とこれらの両立は容易ではない(三宅香帆2024を参照)。近代化と資本主義の発展を振り返った三宅の本が対象とした一般人でさえそうなのだから、いわんや精神障害者をや、であろう。
そして三宅のこの本の主張は、「働く患者」の中で中井が提案する「貨幣取得(生産)活動よりも貨幣消費(購買、贈与)活動を先行させるべき」(p.266)という主張とも重なるように思えた。患者が生活のため、あるいはリハビリテーションの一貫で働く必要にかられた場合、どのような形で働く患者になれば良いのか、何を重視して何を重視しなくてよいのか、を中井はこのエッセイで詳述している。
(社会的)リハビリテーションの目的はそもそも「人生の多様性にむかって患者の個々の人生を開こうとするものであり、したがって単なる職業教育ではない」(p.256)と中井は述べているが、働くことそのものが目的化したり治療目標になりやすいのは当時もそうだったのであろうし、現代もそうである。「働く患者」とは患者の状態で働くことであり、労働は治療のためではない。治療は治療、労働は労働なのであると言うことだ。
「保安処分をめぐる構想」は罪を犯した精神障害者を特別に処遇する必要はない、という立場に立つ1982年発表のエッセイ。その後2001年の池田小事件を契機として日本では医療観察法が整備された。昭和の時代よりも現代のほうがより刑法犯罪は減少しているにも関わらず、セキュリティ意識は高まっている。医療観察法についても中井が何がコメントをしていないかが気になった。
その他、思春期を迎えた子どもに関するエッセイ(「ある教育の帰結」、「思春期患者とその治療者」など)も印象に残る。今に繋がる教育熱の高まりの警鐘や、当時増加していた子どもの暴力に対する危惧などは現代的な関心と沿う部分とそうでない部分もあるが、激しく変化する社会の中で子どものこころをどう守っていくかという視座に富んだ、重みのある文章が続いていた。1964–1983という数字を見て古いかなという先入観を持っていたが、今の時代だからこそ読み直す魅力が確実に詰まっている一冊だった。
[2025.1.21]