光文社未来ライブラリーという新しい文庫レーベルが創刊された。主に人文、社会科学、ノンフィクションを中心に文庫化を進めていく方針とのことで、近刊ラインナップにも面白そうなものがいくつか並んでいる。2017年に翻訳刊行された本書は当時のアメリカがトランプ政権だったこともあって日本でも話題になっていたように思う。
当時はライターやテレビなどの仕事をしていたヴァンスだが、共和党からの推薦をもらい、今年の中間選挙予備選に出馬することを目指しているようだ。本書は非常に著者が自身と自身の家庭環境を回顧するエッセイでありながら政治的な文脈を意識した一冊だが、ついに著者自身が政界に行くかもしれない、というタイミングでの翻訳にはさらなる意義があると言えるだろう。
トランプ政権誕生後によく聞かれるようになったラストベルト、つまりアメリカ東北部の、とりわけアパラチア山脈沿いの錆びついた工業地帯出身である著者は、自身の祖父母や母、そして姉の人生を見る中でまず家庭に絶望し、家庭を崩壊させるいくつかの要素に絶望する。それは時にはアルコールであり、ドラッグであり、オピオイドであり、早い妊娠(著者の姉は10代で妊娠する)である。これらがアメリカの白人たち(学歴の高くない、とりわけ男性)の生活を蝕み、命をも蝕むプロセスを描写したケース&ディートンの『絶望死のアメリカ』という著書があるが、絶望死せずにサヴァイブした著者の、生存の記録でもあると言える。
著者がいかにして生き残り、そして生まれ育ったラストベルトを去ることができたのか。それは教育である。地元で粘り強く教育機会に食らいつくことで、オハイオ州立大学への進学のチャンスを得る。そこで大学にすぐに進学せず、直前に海兵隊に入隊するというのがなかなかアクロバティックでもあるが、海兵隊もまた教育の場として機能することが著者の記述から伝わってくるのだ。
日本でもそうだが、学校を卒業したあとにお金や能力がなく、行き場のない人が自衛隊に流れるという話はよく聞くし、軍隊というのはおおむねそうした傾向があるのだろう。訓練に耐えることができればという前提だが、衣食住が保証され、給与を手にすることもできるからだ。
そうして海兵隊で数年間「教育」されたあと、改めて州立大に進学し、そこでも努力を重ねた著者はイェール大のロースクールへ進学する。ここで彼が感じたことが、本書を象徴しているように見えた。
イェールのような名門校は学費が高いため、多くの学生は恵まれた家庭の出身である。暴力を振るう家族や、アルコールやドラッグに依存する家族はいない。しっかりとした社会常識や地位を持っており、身だしなみもしっかりしている、そうした家庭の出身者たちが大半だ。彼ら彼女らにとってアパラチア山脈は全くの別世界だろうし、軍隊の世界も別世界だ。なぜならば、それぞれのコミュニティは階層がくっきりと分かれているからだ。
著者のように階層を移動することは現代では稀になっている。かつてならアメリカンドリームと呼ばれた叩き上げの大成功は、いまのアメリカでは起きづらく、むしろヨーロッパの方が実現しやすいという話が紹介されているが、裏を返すとそれは階層が固定化されてしまったアメリカ社会への絶望であり、そうした社会を良い方向に導くことができない政治への諦めや怒りでもあることが、ヴァンスの記述の随所に表れている。
例えば福祉は重要だが、福祉は多くの家庭を救えないし、むしろ福祉にしがみつくようになると余計に抜け出せなくなる。アルコールやドラッグや早すぎる妊娠を、福祉的なアプローチは救いきれない。トランプはオールドタイプの政策(雇用の再生路線)を提示したが、そうした政策はグローバル経済の中で限界があることは多くの人が分かっていたし、トランプの再選ができなかったということは、トランプへの期待も2016年の時と比べるとしぼんだのだと言える(例えば2020年のペンシルベニアではバイデンが勝利したし、ラストベルトにおいても接戦州が多く存在した)。
人々は、富める者と貧しき者、教育を受けた者と、教育を受けていない者、上流階層と労働者階層というように、大きくふたつのグループに分けられる。そして、実際に私たちは、属する集団によって、ますますちがう世界を生きるようになっている。一方の集団からもう一方の集団への文化的移住者である私は、ふたつのグループのちがいにいまでははっきりと気づいている。(p.419)
著者のように教育によってチャンスをつかみ、移動することが個人として成功するための数少ない王道ルートなのだろう。とはいえ、現実には多くがドラッグや早すぎる妊娠など、教育を阻害する要因によって教育機会を得られていない。そしてその影響は生涯影響するし、子や孫の世代に連鎖する。雇用や福祉など、目の前のサポートだけでは解決できない根深い問題を、ヴァンスはありのままに描き出している。
アメリカと日本では状況が違うとは言え、教育機会の有無が人生を左右することは様々な研究で紹介されている。もちろん教育は万能ではないし、中国や韓国のような社会全体で高学歴化を目指すベクトルには別の苦しさがある。ただ、本書の後半でヴァンスの言う、かつての自分のような人たちにもっと教育をというメッセージは、底辺との接点がほとんどない階層の上澄みのエリートたちに向けた、切実で強いメッセージだと思えた。
[2022.5.18]