表題作は朝井リョウが純文学作家として書いた一作で、併録されている「レンタル世界」と比べるとキャラクターの書き込みがかなり詳細で繊細だ。まあそれももう3年以上前のこと(『文学界』2016年1月号に一挙掲載)なので、もうそんなに経ったかという気がしたし、本作には技術至上主義とも言えるような女の子が登場し、あらゆるテクノロジーの言葉で埋め尽くされている。それは翻って、薫と雪子という二人のヒロインを面白いくらいに対比させることで、現代を象徴しているようでそうとも言い切れないような、割り切れなさも同時に描いているのが印象的だ。
「レンタル世界」についてざっと触れておくと、これはまず他人をどの程度信頼すべきかという問題である。レンタル恋人やレンタル家族、レンタル友達などが登場する本作は、人が時と場合に応じてキャラ(役割)を使い分ける様を描写し、それに戸惑い、反駁する主人公が描かれる。
しかし、それはある思い込みが原因でもある。何が正しくて何がまっとうなのかは、もはや明瞭化された時代ではない。ソーシャルメディアで容易に虚飾をして生きている私たち現代人が、ネットとリアルがほとんど地続きになったいまではリアルな場でも虚飾を避けられない(そしてそれは必ずしも非難されるべきではない)ということなのだと思う。
表題作「ままならないから私とあなた」については、価値観の違いというやさしいものではなく、生き方そのものの違いを書いている。薫と雪子という幼馴染の二人の女性の子ども時代から大人になるまでを300枚で一気に書き下ろすところのパワーはさすがというべきで、百合要素もあって面白いんだけど、ここ最近朝井リョウが受けたインタビューを読んでいると多様性が許容される現代だからこそ生まれる差異と分断を書いているのだろうなと感じる。
先ほども書いたように、薫には現代らしい緻密な技術至上主義があるが、雪子のようにファジーさを好むタイプは確かにウマが合わないかもしれない。音楽に関する言及が本作では多々登場し、音楽を道具に二人の対比をずっと書き続けているのも印象的だ。音楽というもうすでに電子化されているものであり、ライブパフォーマンスのような場ではいくらでもテクノロジーを導入して演出することが可能な一方で、『響け!ユーフォニアム』に代表されるような、音楽による表現にはアナログな泥くささもまだまだ残っている。
どちらが優れているのかという話になると、神学論争にもなりかねないだろう。だけれど、薫と雪子を通して現れる断絶をそのまま見過ごすのではなくて、わたしたちは違うけれど、なぜそうなのかを相手にちゃんと伝え続けることだ大事なのだろうと思う。
我が道を進むことで自分の正しさを表明しようとするのが薫ならば、薫のことを嫌いではないけれど、自分とは確かに違うということを実感し、それを伝え続ける雪子。このあたりは「レンタル世界」にも通じる対比かもしれないが、雪子のように自分と違う相手を認めること、その上でコミュニケーションにコミットするというのは、案外いまの時代には希少価値が高い。だってもはやみんな、自分以外の違う誰かとコミュニケーションをすることに疲れてしまっている、とも言えるのだから。
[2019.5.19]