「いい自転車には心がある」
「心?」ぼくは父の言葉を思い出した。
「うん。いい職人が細やかな調整をして締めたネジには、集中力が宿っています。 ガタつきや異音を防ぐために、ネジは必ず適切なトルクで締められなければならない。このとき工具を通じて、彼らの力が自転車のなかへ移される。そしてたぶん、数十年ものあいだ自転車に留まっている。 解体するとき、ぼくはその力を感じることがあります」
(文春文庫版(2021)、pp.247–248.)
呉明益が文庫に!ということで興奮しながら手に取った記憶があるが、そのまましばらく積んでいたために読むのが遅くなってしまった。遅くなったのを後悔するくらいには良い本で、味わい深い一冊だった。
自転車がまだ貴重な存在だった時代の回想や自転車への愛情、あるいは盗まれた自転車への思いなど、いろいろな角度で自転車に触れたことがある人間についての物語を断片的に書いている。特に前情報は仕入れていなかったので、最初はそういう小説だと思っていた。一つだけ、翻訳を担当した天野が、本書の刊行後に早逝したことだけは知っていた。
もう一つは家族の物語ということだ。家族、あるいは家系だと言ってもよいかもしれないが。両親たちが若いころに生きていた時代の風景を探すことが(まるで自転車に乗るように)この小説が目指しているものだと感じた。その中で、戦争に飲み込まれてゆく時代背景の描写に余念がなく、とりわけマレー半島を自転車で駆けていた銀輪舞台の物語を書く部分は、戦争小説のようでもあり、ルポルタージュのようでもある。
それだけ戦争の記憶が詳細に書き込まれていることもあってか、台湾の読者を対象にした小説でありながら、同時に日本の読者を対象に置くことにも成功しているのではないかと感じた。海外小説においてそうしたアプローチ、つまり本国と本国ではない国を対象にする場合、特に本作のように太平洋戦争を取り上げた小説の場合、日本という存在に対する描写は必然厳しくなる。それは紛れもなく日本がアジアに対して侵略者であったからだ。本作にもそうした要素はある。だが、少なからずあるという程度で、そこは主眼ではない。
では呉明益はこの長い自転車にまつわる追想の中で何を書こうとしたのか。一つは、あくまで私的な物語だということだ。戦争を題材にとってはいるものの、それは大文字の戦争というより、ある個人が体験した、ミクロの戦争だ。母の介護をしながら、空いた時間でカセットテープの書きおこしをする「ぼく」。テープの内容も、書き起こしをするぼくの感情も、どれもとても私的で、ミクロなものだ。
冒頭、小説家でもある主人公に送られたあるメールから始まるこの小説は、私的でミクロな経験が大きなものと接続する可能性を提示する。逆に考えると、大河と呼ばれるような壮大な歴史の物語の中にいるのは、一人一人の息をする人間たちなのだ。ミクロな経験が寄り集まって、大きな河となっていく。だからこの小説のように、消えた父、父の自転車、届いたメールといった、一つ一つは小さな経験だとしても、そうした経験がかけがえのないものであること、あるいは、誰かの人生に決定的な影響を与える可能性があることもまた、示唆しているように思う。
主人公が小説家であることから、自伝ではないにせよ、長いエッセイのようにも読めなくはない。複雑に入り組みながら、優しい追憶に満ちた文章は非常に純文学的でありながら、スケールの大きい歴史へと接続することで読者をぐいぐい引き込む力も持っている。そうした意味でも純粋に面白い、すぐれた小説になっている。
[2023.3.17]