綿矢りさの到達点としての社会人百合小説 ――綿矢りさ(2019)『生のみ生のままで』集英社

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「タイトルは夫との会話の中で生まれた。恋愛小説はこれまでも書いたし、女の人同士の関係も『ひらいて』という作品で触れた。そうした今までやって来たことに、改めて正面から取り組んだ集大成の小説になりました」と自己最長の作品をそう位置づける。

(引用元:https://style.nikkei.com/article/DGXKZO46835260S9A700C1BE0P00?channel=DF280120166618&n_cid=LMNST011

ストーリーの中に男女間の恋愛や性愛を明確に持ち込んできた(とりわけ3作目の『夢を与える』まで)綿矢は2010年代以降に百合要素を持ち込むようになる。その典型例が本人も言及している『ひらいて』だろうし、短編だと「亜美ちゃんは美人」とか「ウォーク・イン・クローゼット」を含めてもよい。『勝手にふるえてろ』や『かわいそうだね?』あたりがちょうど分岐点というか、古い綿矢と新しい綿矢が入り混じった小説になっているが、『ひらいて』で大きく踏み込んで以降は女性同士の関係性にフォーカスすることがグンと増えた印象がある。

百合とは何か、あるいはレズビアンとは何かを明快に定義することは難しいけれど、いずみのさんの定義に従えば「同性愛は、個人のセクシュアリティ(自己認識や在り方)によって決まるもの」であり「百合は、カップリング(関係性)への客観視によって決まるもの」と規定できる。

レズビアンというのはあくまで異性愛ではなく女性の同性愛というセクシャリティに名付けた名称だが、百合はセクシャリティがヘテロか否かはどちらでもよい。セクシャリティがレズビアン(あるいはバイセクシャル)だとするならばレズビアンと百合は両立するが、多くの場合百合として観察されるのは(百合として二次的に解釈されるのは)ヘテロな女性同士の親密な関係性についてである。これを女性版のブロマンスととらえるか、友情と恋愛のどちらに重きを置くかという話に派生させることまでいずみのさんは試みているが、いったん話を止めておこう。

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本作の主人公である逢衣は彼氏との旅行先で、同じく男性の恋人と旅行に来ていた彩夏と知り合う。旅先の宿で仲良くなろうと試みるもののそっけない対応しかされなかったことから逢衣と彩夏の関係はそこまでで終わってしまうかのように思えた。ただ、二人が雷の音を避けて雨宿りしていたことが二人の関係性をひそかに縮めることにつながる。最終的に二人はそれぞれの恋人に別れを告げ、女友達のルームシェアという名目で同棲を始める。芸能界を駆け上がっていく彩夏と、出版社の中途採用に受かり、多忙を極めていく逢衣。二人の関係はそれでも、容易には続いていかない。

この説明の流れでいくと、『生のみ生のままで』は素直に百合小説だと解釈してよいだろう。ただ、ダブルヒロインがいずれも男性との交際経験があるところ、かといってバイセクシャルだと自覚も公言もしていないところを考慮すると、レズビアン小説とは断言しづらい。もちろんそう言って悪いわけでも間違っているわけではないが、あえて百合小説だという立場をとりたいと思う。この理由は後で述べる。

内容にちてはありきたりなハッピーエンドはないだろうと思いながら読み進めていたら意外な落としどころにたどり着いた。ただそれは、10代の女子高生同士の関係を書くにとどまった『ひらいて』で書けなかった世界を一気に拡張してみせたなと感じた。

逢衣は彩夏と知り合うまでは恋人との結婚を具体的にイメージしていたし、恋人を嫌いになったから別れたわけではない。ただ、それを破棄してでも彩夏にとらわれてしまう、彩夏に賭けたくなる衝動を抑えられなくなる。こうなってくると綿矢りさの書く主人公は欲望に忠実に突き進むだけだ。世間体とか一般常識とか知ったことではない。ただただ自分に正直に、正直すぎるほど、無謀なほどに行動してみせる。

それが大人になってからの長い期間を拘束するものだとしても、果たして実現されうるのだろうか。ここがもう一つ綿矢が新たに持ち込んだテーマだろう。短編や中編として発表するならば、上巻の内容だけで十分だった。ここでも一つの物語は十分に成立しているからだ。でも今回本作を評価するならば、そうした上巻の内容はすべて前座として受け止めて、下巻で綿矢が表現した内容にこそ目を向ける必要がある。

最後まで読み切ってしまうと、ある意味ストーリーとしては王道の展開である。彩夏が生きる芸能界という場所の厳しさ、平凡でありながらも仕事に生きてみせる逢衣のしたたかさ。それらを丹念に書きながら、それでいて大きく予想外の方向には触れない。これを恋愛小説としてとらえるならば、なんて幸福で、そしてよく見たことのある後継なのだろうと思う。

個人的には、綿矢にもこうした王道が書けるのかという意味では、新鮮な驚きをもった。ただ綿矢のことをそんなに知らないか、純粋に物語に期待した読者からすると、風呂敷だけ大きくて畳んだあとのインパクトは小さいという風に、要は物足りないと映ったとしてもおかしくはない。そうした感想を否定できないような展開なのは間違いない。

そのうえで個人的に評価したいと考えるのは、本作の百合小説的な側面、つまり逢衣と彩夏といういわゆる社会人百合のカップリングを見たとき、とりわけ下巻に入ってからの二人のカップリングがあまりにも切なくて痛々しくて、そして耽美なことだ。上巻と下巻では二人の関係性は大きく変化する。そして社会人としての地位や経験も大きく変わる。そうなると必然、二人の逢瀬も上巻までのように穏やかで平和的で、そして純粋にハッピーなものにはならない。

だからそうした純粋にハッピーではない二人のカップリングを、かといって一言で不幸とか破綻とも片付けられないような、いわば二人の「特別な関係性」を表現するためには下巻に持ち込まねばならなかった。先ほどの日経スタイルのインタビューで綿矢は「「2人の素直な気持ちから出ていることだから、同性の恋愛が抱える繊細な問題を乗り越えてほしいとの思いを込めた」と話している。逢衣と彩夏にとっての障壁や問題とはどのようなものなのか。そしてそれらに直面した時、二人の関係性はそれらを乗り越える力があるのか。

王道の展開は二人の関係を容易に破綻させてしまっては物語にする意味がないと踏んだからだと感じた。結果的に王道になってでも、逢衣と彩夏が乗り越えていく姿、時間を書こうという綿矢の思いは、下巻で展開されるいくつかのベッドシーンに現れている。

破綻してしまいかねない関係性を手放すのは容易である。でも手放さないこともできる。ではどのように、どうすれば。上巻の時にはどちらかといえばさえない派遣社員でしかなかった逢衣が、下巻でアラサー女になってひそかに力(社会的なスキル)をつけていることを知った時、社会人百合ならではの、大人の女性だからこその成長の物語へと昇華させているのも面白い。

逢衣が彩夏のことを思うがゆえに苦悩する姿が本当に美しくて、気持ちのすれ違いが長く続いてもそれを失わない逢衣の健気さというか頑固さというか意地のような重い感情に綿矢りさ小説のヒロイン性を強く感じる(簡単に言えば逢衣は彩夏に感情をこじらせている)わけだけど、でもそうした綿矢の執筆家庭が集大成として逢衣、彩夏というタイプの異なるヒロインを生んだことについてはなるほどなあと思う。そして二人とも綿矢りさの書く女性である以上、波風が立たないわけがないのだ。

さよならくちびる』という最近見た百合映画に「たちまち嵐」というフレーズがあったが、二人の関係性には今後も嵐が吹き続けるだろう。でも、だからこそ二人はより関係性を強固にしていくのかもしれない。普通じゃない、特別の関係へと。それが二人が選んだ、最強の選択なのだろう。その選択こそが、2010年代の綿矢りさの到達点である。彼女が芥川賞の最年少受賞から15年かけてたどり着いた地平がここだ。

[2019.7.7]

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バーニング
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Written by バーニング

90年生まれ。アイコンは@koyomi_matsubaさんデザイン。連絡先:burningsan@gmail.com

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