中山可穂の名前をちゃんと知ったのは、李琴峰の文章だったと思う。レズビアン小説を日本語で書き続ける彼女は同世代で早稲田出身という経歴もあって関心を持っていたが、中山可穂のことは彼女の文章を読むまでほとんど知らなかった。現在では絶版になっているものが多いが、2021年から河出文庫で本書を含めた3冊が復刊されていて手に取りやすくなったのは非常に良いことだと思う。
「そのとき、わたしは四十三歳で、ニューヨークの紀伊国屋書店にいた」(p.7)という書き出しがまずとても良い。43歳になった主人公が過去の恋愛を振り返るのだろう、しかも異国で、ということが瞬時に伝わる。そしてそのまま少し読み進めると、元恋人は女性で、作家で、そして「テン・イヤーズ・アゴウ」(p.9)に28歳で亡くなったことも語られる。10年前に喪った同性の恋人を、追憶する。この小説の骨格がはっきりと示されるのだ。
つまり、本書は結末がいくらか明かされた上で、いかにその結末にたどり着くのか、二人の恋愛と人生のプロセスを描くことが主眼となっている。それが結果的に、狂っていて美しい恋愛を書くことに作家を集中させたのではないかとも感じる。
恋愛を書くという意味で、それほどひねりがたくさんあるわけではない。ある日、山野辺塁と出会ってしまった主人公のクーちゃん(川島とく子)は彼女と親密になり、時々ケンカをし、そして塁は時々いなくなる。塁の感情のアンバランスさはクーちゃんの感情も揺るがす。彼女には喜八郎という男性の元カレがいたが、塁との関係のアンバランスさと喜八郎との安心さを天秤にかけるようにもなる。
ストーリーの起承転結がわりとはっきりしているため、恋愛関係の波はストーリーの起伏にメリハリをつけることにも成功している。塁という名前は野球選手だった父の名づけだが、野球に例えると緩急のつけ方が巧みな小説だ。塁とクーちゃんの感情の駆け引きは、ピッチャーとバッターの駆け引きのようにも見える。打席に立つごとに異なる駆け引きは、しかし結果的に二人の関係を濃密にしてゆくのだ。
二人はそれぞれの理由で、互いを離そうと試みる。けれども、離れた後にまた求め合うようになる。そうして次第に濃密になる関係性の中で、破滅に向かう塁の感情も加速してゆく。他方で、互いが互いを欲望し合うことの美しさを、一貫して気取らない描写で書いているのもいい。ベッドの上で、素のままに求め合う二人の息遣いが見えてくるのが、とても心地よいのだ。
タイトルの「白い薔薇の淵」とは何なのか、あるいは塁はなぜ破滅に向かっていってしまうのか。塁の過去と現在がつなぎ合わさる瞬間が、もっともこの小説で美しく、そして絶望的でもある。そうした瞬間のエネルギーの強さに、どうしようもなく惹かれてゆく。そうした類の、優れた恋愛小説だった。
[2022.12.30]