記憶と、いま目の前の現実と向き合う――高橋弘希(2017)『スイミングスクール』新潮社

バーニング
4 min readMar 6, 2019

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ウィキペディアの情報と私の記憶が間違っていなければ、本作に収録されている「短冊流し」が、高橋が書いた初めての現代劇であるはずだ。それまでの高橋はデビュー作「指の骨」と「朝顔の日」で太平洋戦争下の人々の日常(戦地も含めた)を書いており、いずれも芥川賞の候補に上るも受賞には至らなかった。「短冊の日」はそうした中で書かれたもので、そして本作も芥川賞の候補に上っている。受賞は4回目の候補「送り火」を待つ必要があるが、デビューから3作続けて候補に上るというのはなかなかあるものではない。

だから高橋の小説はコンスタントに本になり、出版されている。「短冊の日」は新潮の年始特集に掲載されたものであるのでかなり短い小説ではあるし、当時読んだ記憶も朧気にあるが、この小説だけでも高橋弘希の書きたいものは存分に伝わってくる秀作である。個人的には表題作も悪くはないしよくできていると思っているが、ちょっとテクニックに寄りすぎているきらいもあり、少し評価が難しい。ただ、「短冊流し」に至っては最初から最後まで息を詰まる展開でありながら、人の情や優しさ、あるいは祈りといった感情に徹底的に寄り添うことができている。

これは、「指の骨」で実践してきたことを現代に置き換えるならば、つまり命の淵にある人に対してどう振舞うことができるのか、何ができて何ができないのか、どのような感情が巻き起こるのかということに対して徹底的に向き合っているということだ。高橋はそれができる作家で、というか「指の骨」は基本的にそれしかしてないというくらい、小説の中で流れる時間の経過がおそろしくゆっくりだ。「短冊流し」も同様に、小説そのもののストーリーの短さも相まって、濃密な時間だけが流れる小説だ。

それと比べると、「やや長い短編」である「スイミングスクール」は、「短冊流し」のように家族の物語を書きながら、あからさまな不在が存在している小説だ。さらに、傷ついた過去を持つ女とその三代記という筋書きは、あらゆるところに不安や不穏をちりばめている。

「スイミングスクール」に通わせるつもりはなかったのに娘を通わせることになった母親と、その母親が自身の過去を適宜振り返りながら、娘を育てる日常と向き合う、ある意味ではそれだけの小説だと言えるのだけれど、散りばめられた要素が不穏だからページをめくる手は順調に進んでいく。

ミステリーのような鮮やかなネタバレはないが、読み進むにつれて明かされてくる内なる事情はいくつか存在する。ただ、語り手である娘の母親は、あまり信頼できる語り手ではない。ではなぜ彼女はそこまで不安を背負って生きているのか、何を恐れているのか。逆に不安とは無縁で向くに生きる娘の存在は、そうではない母親を精神的に追い詰めていく。

家族というものはいつの時代も存在するものである。そしてその中には確かな時間が流れている。けれど、記憶というものは常に断片的だし、流れている時間は過去になればなるほど遠ざかって薄れていく。記録すら曖昧な形でしか残らない。

ある意味シンプルな構図をしている「短冊流し」と比べると、不必要に見えるほど様々な要素が乗っかっている「スイミングスクール」は、複雑化した構造を書くことで家族の事情を複雑であるかのように見せることに成功しているのかもしれない。断片的な記憶や、人間関係の複雑さへの着目は、のちに書かれる『日曜日の人々』にもおそらくつながっていくはずだ。

タイプが違うようで似ているところもあるこの二つの短編が、未来の芥川賞作家の新しい一歩であり、デビュー作から残る一貫性でもあるということを、最後に記しておきたい。

[2019.3.6]

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Written by バーニング

90年生まれ。アイコンは@koyomi_matsubaさんデザイン。連絡先:burningsan@gmail.com

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