表題作が芥川賞の候補になった時にチェックしたのをうっすらと覚えている。それで島本の候補は最後のなり、昨年『ファーストラヴ』で直木賞の方を受賞したことで、一連の賞レースからは退くこととなった。
本作が強い印象に残らなかったのは今回島本が書いた小説家・萱野千紘というヒロインがつかみづらかったせいかもしれないし、彼女の書く男性キャラクターがことごとくどうしようもない(これはいつものことではある)からかもしれない。ただ、2018年に文庫になるにあたって短編だった「夏の裁断」が長編化されていることに気づき、萱野千紘という女性の深淵へと読者として誘われていくことになった。
萱野千紘は正しく人を愛せない。もっと言えば、他者と、とりわけ男性と適切な距離感を保つことのできないキャラクターとして描かれる。だから表題作において編集者の柴田に対し、通常なかなかないようなシチュエーションで決別をしてみせる。けれどもそれは、柴田とズブズブになっていた自分自身への決別(のきっかけ)でもあったということは、彼女の不器用さを見ている読者なら気づくという構図にもなっている。
自分自身への決別とは何か。それは彼女の生い立ちをたどる必要があり、そのために島本は夏から春への一続きの物語として新たに物語を構成し直したのだろう。それはつまり、萱野千紘というキャラクターの人生を、もう一度描くということである。過去から現在へ、そして現在から未来へと人生の設計図を描きなおすこと。そこには彼女のある行為と、そして新たに出会う男の存在が必要となるわけだ。
もっとも、新たな男が千紘にもたらすものは一瞬の安らぎであってそれ以上でもない。千紘もそのことに自覚的でいるから、時折卒業後も懇意にしている大学教授と連絡をとっている。プライベートな内容で学生時代の大学教授(この人も男性だ)と連絡を取り続けるヒロインというのもなかなかありふれていないが、自分のことを冷静に見つめられる一方で、異性関係に溺れてしまう自分も許容する。このアンバランスが、萱野千紘というキャラクターをある意味では支えている。彼女は一人きりでは生きられないということを。
正直エンディングにあたる春のエピソードを読んでいて、これまでのあまたのズブズブから比べると少しきれいすぎるくらいの終わり方をしていることにやや違和感も覚える。ただ、彼女が現在に対して決断をあいまいにするのは妥当すぎるくらいだが、現在の彼女に大きく影響を与えている過去の男に対して、このような形で決別を表明するとは思わなかった。カタルシスのようなものがあるとすれば、柴田にフォークを突き付ける部分と、そしてこの春の決別だろう。
彼女は多くの男と出会い、そしてやがて別れる。その繰り返しが彼女の生き方であり(脆い)生存戦略なのかもしれない。ただ、このループもいつか終わりを迎えるのかもしれないと、決別の春は示している。そう考えるとやはり、クズ編集者柴田にフォークを突き付けたのは、彼女の人生にとっては重要な通過点、つまり本当の意味での決別のはじまりだったのだ。文字通り、夏から始まる(異性関係の)「裁断」であった。
[2019.6.29]