韓国本国では2012年に刊行された短編集。約10年の期間を経て、日本でも翻訳刊行される運びとなったようだ。8つの短編が収められているが、内訳をみると2010年前後に発表されたものが中心。最後にはストレートに「三十歳」という短編も収録されているが、1980年生まれのキム・エランにとって20代の終わりから30代の始まりにかけて執筆された小説が並んでいることが分かる。
キム・エランは最初に『走れ、オヤジ殿』を読んで以来韓国作家の中でも特別好きな作家の一人だが、本短編集についても最初に収録されている「そっちの夏はどう?」を読んでやはりキム・エランがとても好きだなと思った。
彼女の書くキャラクターは本当に現実世界のどこかで生きているように感じる。だからどれくらいつらい状況にあっても、キャラクターへの作家の眼差しの優しさと温かさを強く感じることができるのだと思う。前述したように1980年生まれの作家にとって、多感な10代を過ごした90年代(ちょうど映画『はちどり』の主人公と併行する)を経て、90年代後半のIMF危機を引きずる2000年代に20代、そしてリーマンショックを経験してさらに格差が広がる時代を30代として過ごすことになる。
これまで喪失や傷をテーマに書いてきた作家だが、さらに踏み込んで格差、貧困についての小説が多い。それは1987年の民主化後、「圧縮された近代化」とも呼ばれる90年代以降の韓国社会の変動をつぶさに見つめてきた作家の本領発揮なのだろう。
「そっちの夏はどう?」に話を戻そう。この短編は、大学生の就職難という韓国文学では共通されたテーマがかぶさる短編だ。その上で、ジェンダーの問題がいびつに絡んでくる。就職難時代の若い女性は、社会的に不利な立場に立つことが多い。だからといって同時代の男性が生きやすかったわけでもない。先輩を慕う後輩の目線で書かれるこの小説は、純粋さと社会の歪さを同時に体感することになる小説だ。
いくらかホラーめいた「虫」はピョン・ヘヨンの作風を思わせる。その後、クレーンのてっぺんから抗議活動する小説「水中のゴリアテ」を経て、この本の見どころの一つ、「かの地に夜、ここに歌」を読むことになる。キム・エランという作家を本書で初めて知る人にとっても、この短編はかなり響くことになるのではないだろうか。
越境をテーマにする韓国作家として思い浮かべるのはチェ・ウニョンだが、キム・エランのこの短編にも越境の試みがある。それは、負の感情とともにある越境だ。家族や兄弟の中で劣等感を感じていた主人公が大都市ソウルで出会う、中国人女性のミンファ。語学堪能な彼女に影響されて、中国の勉強を始める(が、やはり長くは続かない)。生活の苦労の中で得た束の間の愛や安らぎは、ある日を境に暗転してゆく。
「そっちの夏はどう?」も記憶にまつわる小説だった。ある地点から過去親しくしていた先輩を思い出し、振り返る小説だからだ。「かの地に夜、ここに歌」もまた、記憶にまつわる小説である。そしてその記憶は、あまりにも悲しくて切ない。カセットテープに吹き込まれたミンファの「例文」が、より感傷的にさせる。それでも、何も残されていないよりは、何かが残されていたほうがつらい現実を生き延びるための救いになるのかもしれない。
短いながら犯罪小説でもある「三十歳」でも、ケータイに残されたメールが主人公を苦しめる。苦しめるが同時に、過去の懐かしい思い出を呼び起こすこともある。現実は厳しいし、あまりにもしんどい。だからと言って楽しかった過去を全部水に流さなくても良いのではないか。キム・エランの優しさは、そうした肯定性にあるように思う。
喪失。それを経験すること、そして経験したあとのことという点では 『外は夏』収録の「立冬」を思い出さざるをえない。深い喪失を経験した人に対してキム・エランは、強く生きろ、とは決して言わない。その代わりに、どんな形であれ生き延びた人々に寄り添う。同時にもちろん、生き延びることができなかった大切な人たちのことも優しく思い返しながら。
[2025.2.22]